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【映画評書き起こし】宇多丸、『沈黙-サイレンス-』を語る!(2017.1.28放送)

ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

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宇多丸:「映画館では、いまも新作映画が公開されている。
     一体、誰が映画を見張るのか?
     一体、誰が映画をウォッチするのか?
     映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる——
     その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

宇多丸:
ここから11時までは、劇場で公開されている最新映画を映画ウォッチ超人こと<シネマンディアス宇多丸>が毎週自腹でウキウキウォッチング。その<監視結果>を報告するという映画評論コーナーでございます。今週扱う映画は先週、「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して決まったこの映画……『沈黙 -サイレンス-』

(BGM:波の音が流れる)

今回の映画『沈黙』はいわゆる映画音楽、テーマ曲みたいなのが全く流れない作品で、オープニングと最後にこういう自然音が流れるわけです。その自然音の感じを、今回臨時で入っていただいたエンジニアの吉村さんにそれっぽく作って頂いたものをバックにして……(笑)。なんか音楽を流すのもちょっと違うんじゃないか?っていう気がしてね、こんな感じでお送りしています。遠藤周作の同名小説を『タクシードライバー』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』などなどなどの巨匠マーティン・スコセッシが映画化。キリスト教が禁じられていた江戸時代の日本に渡ってきた2人のポルトガル人宣教師が、厳しい弾圧の中で生きる日本人たちを目の当たりにし、やがて変化していく様子を描く。出演は『アメイジング・スパイダーマン』などのアンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバー、リーアム・ニーソン、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也らということでございました。

さあ、ということで、もちろんマーティン・スコセッシ最新作ということもありますし、遠藤周作の原作ということもございまして、日本で注目度が高いということもあるのでしょうか。メールの量は非常に多いです。ありがとうございます。この映画をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)メール、非常に多いです。で、その感想の賛否の比率は8対2で褒める声が多いです。「宗教について、日本について、見終わった後にも深く考えさせられる1本だった」とか「日本人キャストたちが全員よかった」「昔からの原作ファンだが、文句なし!」など絶賛の声が多かった。

一方、批判的な意見としては「登場人物たちの強い信仰心の源が何なのか、映画の中で全く説明されないため理解できない」とかとか、「そもそも宗教に対して批判的なので楽しめなかった」などの声があったということで。賛否をあわせてリスナーの感想、代表的なところをご紹介いたしましょう。行きますよ。

ラジオネーム「なかなか子」さん。「私は学生の時にはじめて原作を読んで衝撃を受け、それ以来何度も読み返しているほどの原作ファンです。正直、『ハリウッド的な派手な演出や欧米的な解釈が入っていたら嫌だな』と思いながら、あまり期待せずに見に行きました。結果、スコセッシ監督をナーメテーター私をどうかお許し下さい! コンヒサン! コンヒサン! と告解を乞いたくなるほど原作の本質を見事にとらえた素晴らしい作品でした。映画を見終わった直後はとにかく監督への感謝の気持ちでいっぱいになりました。誰が悪者で誰が善人だとか、何が正しくて何が間違っているという価値観の押しつけが一切なく、ただ静かに淡々と物語が進んでいくので、それぞれの登場人物の殉教や棄教の選択についてどのように考えるべきかも見ている観客に完全に委ねられており、登場人物と一緒になって葛藤させられる映画だと思いました」。

一方、ダメだったという方。ラジオネーム「はんぺん」さん。「原作未読です。個人的にはイマイチでした。日本描写はかなり正確で突っ込めるところは片手で数えるほど。美しい風景とショッキングな描写の対比、役者の演技など素晴らしかったと思うのですが、そもそも信心も薄く、若者特有の正義感も情熱も失って久しい私。自分たちの行動が原因で不幸が撒き散らされている現実を、信仰を盾としてしまって直視せず、なかなか自身の行動を省みない主人公ロドリゴの姿はネット上で自分の正義をところ構わず押しつけて、場をブチ壊して批判も受け入れない残念な人と同様にしか見えず、全く入り込めませんでした」という。まあ、感情移入できなかったということですかね。

一方、結構キリスト教が本職というか、関わっていらっしゃる方からも複数、メールをいただいておりまして。たとえば、ラジオネーム「聖パパ」さん。「私はキリスト教の牧師で……」。こちらの方はプロテスタントですね。映画は当然カトリックですけども。プロテスタント福音派の牧師さんをやっている方ですね。「……幼少期から母に連れられて教会に行っていました。しかし、年を経るにつれ、キリスト教が果たして本当に人の幸せに貢献する宗教なのか? 悩み始めたのです。その後、紆余曲折をへて、私は牧師になっています……」。で、いろいろと本当に書いていただいてですね。「……ある見方として、ここ(作品)に描かれているのは教理としてのキリスト教と実践としてのキリスト教の相克です」という。で、いろいろ書いていただいて。ごめんなさい。省略させていただいて申し訳ないんですが。

「……(教義と現実が矛盾した場合に)その教理的なキリスト教を否定し、実践を優先する時、教義を破る、すなわち棄教することが求められます。逆説的ですが、教え込まれた教義を捨てることこそ、キリスト教ではなくキリストの教えを真に実践することになるのです。愛について説くことではなく愛を実践する時、説教や概念を伝達することは無意味です。最後に棄教した主人公がキチジローに赦しを与えます。それは本来、カトリック教会に叙任されたもののみが与えることのできる秘蹟です。しかし、物語において真に赦しを与えられたのは皮肉なことに主人公ロドリゴが司祭でなくなった後のことでした……」というね。クライマックスなどにも触れつつですね。

「……ラストのある展開。遠藤周作が日本的にそこはかとなく描いたものを単刀直入に見せることで、最後に一抹の希望を感じさせる効果を発揮していました」というね。ラスト、ちょっとネタバレを避けつつ言いますけども。「……希望は潰えてない。紆余曲折を経たその先に彼には救いがあった。そう監督は描きたかったのでしょう。なぜなら、スコセッシはカトリック信仰を捨てきれず、いつしかその葛藤をスクリーンで消化する道に監督を選んだんですから。その意味では、真に普遍——劇中で言えばカトリシズム——を希求した1人の人間を温かく包容するスコセッシ監督の眼差しが具現化していると解釈してもいいかもしれません。私の周りでは教会関係者がこの映画に興味を持ちながら、信者さんにこれを勧めていいものかどうか悩んでいます。それぐらい『沈黙』は大きなインパクトと議論をキリスト教界に与えています。でも、こういった解釈ができる映画でとてもうれしかったです」というね、牧師さんからいただいたメールでございました。メール、みなさんありがとうございました。全部、目を通しておりますのでね。カトリック側のいろんな方、詳しい方からもいただいて。読ませていただいております。

ということで私もバルト9、TOHOシネマズ日本橋、そして今日もTOHOシネマズ六本木で昼間の回を見てきて。非常に入っておりました。3回、見てまいりました。マーティン・スコセッシ28年越しの企画がついに実現ということですね。ずーっと前から「やるやる」というのは伝わってきていましたけども。一時、本当に本格的に具体的に動き出した時期もあって。ダニエル・デイ=ルイスがフェレイラ神父役をやって、今回アンドリュー・ガーフィールドが演じている主人公ロドリゴを、いろいろ候補があったみたいですけども、「あ、そういうのもあったんだ」っていうのでは、、レオナルド・ディカプリオがやるなんていう話もあったそうなんですが。ただ、主にやっぱり資金集めに難航して、結局頓挫したりなんかしたというね。で、実際にこうして実現した今回のスコセッシ版『沈黙』も、あくまでマーティン・スコセッシ監督作、そしてこの規模のアメリカ製歴史ドラマとしては、ということですけど、比較的——日本映画とかと比べればめちゃめちゃ金がかかっていますけども——比較的、低予算ではあるということですね。

ちなみに、言わずと知れた遠藤周作の代表作のひとつである原作小説『沈黙』。1966年の小説、僕もこの機会に高校生以来、読み返しましたけども。で、今回のスコセッシ版の映画を見た後だと、やっぱり高校生でホゲ〜っと読んでいたんで、当時サラッと、結構読み流していてちゃんとわかっていなかったニュアンスとか意味とかに改めて、今回の映画を見ていて、「あ、ここの部分ってそういうことだったんだ」ってようやく気づいたりなんかして。とにかくまず、この元の小説を読み直すと、やっぱりめちゃめちゃ元が面白いですね。相当面白い小説だと思いました。ぜひ、そんな長い小説じゃないですし、映画を見た後だったらよりスルスル入るんで読んでいただきたいと思います。先ほどの(リスナーメールの意見としてあった)信仰心の源が云々というのは、基本的にまず、イエズス会宣教師というのがどういう人たちか?っていう基本的な歴史的知識の部分も必要だったりすると思いますので、ぜひ原作を読んだりとかしていただくといいと思うんですが。

この遠藤周作の『沈黙』、実は先にもう1個、映画化作品がございまして。1971年、篠田正浩監督版というのがあるわけですね。結構原作が出てすぐに映画化されたのがある。僕、この機会にはじめてAmazonビデオに入っていたので見たんですけど、こっちは遠藤周作本人が篠田正浩と共同脚本ということでクレジットされていたりして、たしかに一部の言い回しとかは小説のまんまのところとか、遠藤周作本人が関わっているだけあって多いんですけど……全体としては、実はこの、遠藤周作本人が関わった篠田正浩監督版バージョンの方が、映画オリジナルのアレンジは激しいですね。見比べた感じ。

今回、窪塚洋介が演じるキチジローというキャラクターを、こっち(1971年版)はマコ岩松さんが演じているんだけど、そのキチジローと三田佳子演じる遊女のエピソードとかは、もちろん原作にそんなエピソードはないんですよ。だし、「ぶっちゃけ本筋から結構これ、ズレて来てない?」みたいな感じのエピソードがくっついていたりとか。あと、原作のあるくだり、今回の(スコセッシ版)にも入っていましたけど、洗礼名ジュアンという人がある展開になっちゃうのがありますけども。あそこ、こっちの篠田版だと(体を)地面に埋めて首だけ出した上を、馬で何度も何度も通り過ぎるという、やっぱり映画オリジナルの拷問っていうか嫌がらせシーンっていう。ここは岩下志麻の悲鳴の出し方がすごく異様でいいんですけど。そういうのがあったりとか、まあいろいろあってアレンジが大きい。

ただ、なんと言ってもギョッとさせられるのは、終わり近くになってくると……まずなにしろ終わり方。「えーっ、それが結論〜?!」っていうところでばっさり……結構バサッ!っと終わっちゃうんですね。ざっくり言えば、主人公のロドリゴは、結局劇中の表現で言う「日本という沼」に、どっぷりとはまりきってしまったとさ……っていう。それでおしまい、っていう。原作小説と比べても、かなりこの篠田正浩版の終わり方は、非常にペシミスティックっていうか。まあ、「皮肉な日本人論」みたいな色が非常に濃い結論に……「日本ですからね」っていう、そういう結論だと言えると思うんですけど。

あと、フェレイラ神父を演じているのがなんと丹波哲郎というね。丹波哲郎が出てきて、しかもそれ(メイクの雰囲気など)が完全にもう、「病気です!」っていうか。もう、「ズーン! 俺、やっちゃいました!」みたいな(笑)。「日本というのは沼なんだよ! 君、わかるかい!?」っていう(ザ・丹波哲郎な)感じで来るんで(笑)、まあやっぱり非常にペシミスティックな結論、方向性の色が強い作品に……ただまあ、こっちはこっちで、武満徹の音楽が非常にかっこいいしですね。たとえば序盤の、ロドリゴとガルペさんがうっかり人に見られてしまうところ。今回のスコセッシ版とはまた違う、ちょっと不気味さがあってかっこいい……山肌に人の影がポンポンと2つ見えるというかっこいい画があったりして、こっちはこっちでまた違った面白さがあるので、興味がある方はぜひ見比べていただきたいんですけども。

ただまあ、間違いなく言えるのは、それに対して今回のマーティン・スコセッシ監督版『沈黙』はですね、かなり原作小説に忠実な作りと言えると思いますね。なので、たとえばテーマ的にというか、描かれている物語に対して言いたいことが出てくる人は当然……まあ、言いたいことを言わせる、いろいろ出てくるタイプの——問題提起をしている作品なんで当たり前なんだけど——それはもう、完全に原作小説がそうなんだっていう風に思った方がいいと思います。で、アレンジももちろんちょいちょいしているんですけど、原作小説の精神には基本的に忠実というか。先ほど(のリスナーメール)ね、原作ファンがあれだけ納得するのも本当にわかります。しっかり読み込んで、深く理解した上で、今日的な思考、解釈というのを加えるというか。なので、原作から全然ズレてないといったあたり。

でも、それでいてやっぱり、映画としてのエンターテイメント性というのも、ちゃんと押さえている。たとえば、一種「モンド映画」というテイストもあるわけですよ。長崎の街を引き回されるところとか、『アポカリプト』のマヤの都市に入っていくところみたいな感じでしたよね。とか、最初にトモギ村っていう村に連れて行かれて、暗闇の中からおばあさんというか奥さんがニューッて出てくるところとか、そんな怖い出方をしなくても……(笑)とかさ。ご飯を出す時にも、わざわざ下から光を当てて不気味に見せていたりとか。そういうちょっとモンド映画テイストっていうか、そういう見せ方も含めて、エンターテイメント性みたいなのもしっかり押さえられている。当然、残酷描写みたいなのもそうですし。あと、もちろん映画としての語り口の巧みさ、フレッシュさというのはもう、全編に渡ってそれは、「さすがスコセッシ、上手いな!」としか言いようがなかったりして。

先に結論を言っておきますけど、僕もやっぱり予想していた以上に……「『沈黙』をアメリカ映画としてスコセッシが撮ればこんぐらいだろう」って予想していたより、全然上の、素晴らしい作品が出来上がったという風に思います。スコセッシのね、カトリックをはじめとして……『クンドゥン』とかも含めて、いわゆる「宗教もの」路線っていうのはさ、僕らがいちばん好きなスコセッシの、バイオレンス犯罪路線とかさ、ピカレスク・ロマンとかさ、ああいう路線と比べると、ちょっと真面目になっちゃって、面白みという意味ではちょっと下がるよねっていう印象がある人は、僕を含めて多いと思うんだけど、今回はちょっとその「(スコセッシの)宗教・カトリック路線」の中でも、頭ひとつ抜けているんじゃないかなと思いました。

まず感心してしまうのは、これ誰でも思うことでしょうが……先週、放課後クラウドで時代劇研究家の春日太一さんもおっしゃっていましたけども、日本人が見て「うん?」って思うような日本や日本人描写……日本を舞台にした海外作品だったら、大なり小なりあるだろうと、こっちもある程度覚悟をしているというか、諦めているわけですけど、まあ、ほぼほぼないっすよね。今回の『沈黙』。そこんところはほぼ大丈夫。非常に安心して見ていられるというあたり。もちろん、スコセッシのことですから、日本映画の伝統というかクラシックへのオマージュ……たとえば、霧に包まれた船の上のシーンとかは、パンフレットとかにも書いてありますけども溝口健二の『雨月物語』のオマージュだとか。あと、やっぱり朝もやなんですかね? 白く煙った中から、武士たちの軍団が馬の蹄とともにうっすらと現れてくるあの感じとか、まあ『七人の侍』なんだろうなとか。

そういうあたり、「これ、俺の考える日本映画! イエーイ!」っていう(笑)。そういう感じもキメてくれたりするんで。それだけでも本当にかなり貴重な作品……要するに、日本人として見ていて安心できるという貴重な作品であるのは間違いないですし。それとも関連して、これも春日さんおっしゃられてましたけども、日本人俳優が本当に軒並み素晴らしい仕事をしていると思います。もちろんそれは、今回の作品全体がそういう意図のもとに演出されているからっていうのもあるんだけど、とにかくどのキャラクターも、先ほどのメールにもあった通り、単にいい人/悪い人、正しい人/間違っている人という風に単純化できない。非常に多面的、多層的な描き方、表情の見せ方をしていると。で、今回とりわけ、特に重要なのはやっぱりキチジローというキャラクターの描かれ方だと思います。

彼はこの物語の中で、要するに、主人公ロドリゴにとっての「ユダ」的な存在ということですよね。まあ、スコセッシの映画はだいたいそういうユダ的な存在、裏切りっていうのがかならず、結構出てくるテーマですけども。ユダ的な存在。で、要所要所に現れては、「なんでお前、ここについて来るんだ? なんでだ? いいから俺の目の前から消えてくれ!」っていうところまで現れては、図らずもロドリゴの信仰の在り方を揺さぶり、問いを投げかけてくるという、そういう存在なわけだけど。今回の映画版の窪塚洋介の演じ方というか存在感というのはですね、要は単にこのキチジローという男が、卑近で下劣で弱い男というだけではなく、どっかで……たとえばちょっとした聡明さも感じさせるというかね。「ひょっとしたらこいつ、全て確信的にやっているんじゃないのか?」っていう。

たとえば、あの「水を落としちゃいました」のところとかね、「えっ、お前わざとか?」みたいな、そんな感じがする。まあ賢さみたいなものを感じさせるところがあったりとか。あるいは、まさしく天使的と言っていいような……そういう、要するになんか「神がこいつを遣わしているのかな?」っていうような純粋さとか、美しささえ感じさせる時があったりしてというね。なにしろ彼のさ、顔立ちというか見た目の感じ、容姿。特に顔が、ロドリゴが繰り返し思い返すキリストの顔が毎回、挿入されますよね? やっぱりあそこに寄せてきているじゃないですか。キチジローの顔とかそういう感じを。なので、そのようなキャラクターとして……要するに、非常に卑近でダメな弱い男なのに、実はひょっとしたらいちばん聖なる存在なのか? みたいな。もしくはそのロドリゴを、聖なるところへ近づけるための導きの役なのか? と思わせるような厚みを持って描くことで、非常にこの物語としての深みとかが、わかりやすく際立つようになっているというあたり。これ、本当に大きいポイント、素晴らしいポイントだと思います。窪塚くん、本当に素晴らしいと思います。

あるいは、浅野忠信演じる通辞(通訳)が見せる、そのカトリック的なものに対する、実は「愛憎入り交じる」というぐらいの感じなんだろうなというような、非常に複雑な表情とかね。まあ、いちいちそういう細かい表情……イッセー尾形のこういうところが、とか挙げていくとキリがないんですけど。そんな感じで、非常に多面的で多層的な見せ方というのをしている。一方で、(モキチ役を演じている)塚本晋也監督は、まあ俳優としても非常に優れているのは知られていましたけども、文字通り体を張って「体現」する……本当にその、純粋な信仰のあり方、信仰をしているんだという(ことを体じゅうで表現している)姿とかが……あれはやっぱり、塚本さんのあの磔のシーンの、あの(本当にキツそうな)感じとかが、作品全体の説得力に、非常に重大な役割を果たしているのは明らかだという風に思いますね。まあとにかく日本人勢は総じてとってもいいと思いました。

対するハリウッドの一流俳優陣も、本当にレベルの高さは言わずもがなで。まず、あのアンドリュー・ガーフィールドとアダム・ドライバー(※宇多丸註:ここ、放送上ではなんと、『アダム・サンドラー』と言い間違っちゃってます! いくらなんでも!(笑) それはそれで想像すると面白いけど! ということで、取り急ぎこの場を借りて訂正してお詫びいたします)。この若手2人がすごい……要は若干幼さを残す顔立ちっていうのが、役柄に合っていますよね。彼らは、情熱には燃えているけど、ちょっとやっぱり、一本気なのはいいけど、世界の見方が一面的で幼いわけですね。で、序盤はまだちょっとだけ青春珍道中感があったりして。村人からもらった食べ物を、祈りを捧げるのを忘れてガブガブ食っちゃって、「あっ、ヤベッ」みたいな感じとか。そういうユーモラスな感じもちょっと楽しかったりするし。あと、やっぱり頑迷さと逡巡との間でグラッグラにブレまくる、あの後半のロドリゴさんの……まさにあれはアンドリュー・ガーフィールドさんの表情芸というか、見事な演技の真骨頂だと思いますし。

で、さらにアンドリュー・ガーフィールドのロドリゴと相対する、フェレイラ神父ことリーアム・ニーソン。これ、威厳はある。非常に威厳はあるし、しっかりと理路整然と話すけど、ぶっちゃけものすごーく気まずそうっていう(笑)。堂々とはしているけど、やっぱり言い訳がましいっていう。要は強さと弱さが同居する感じっていうのはこれ、リーアム・ニーソン、本当にハマり役じゃないかと思いますね。でまあ、そのフェレイラの語る日本とか日本人論っていうのがまさにそうなんですけど、非常にセンシティブな、我々日本人からするとかなり居心地が悪くなるような議論とか問答が積み重なっていく話ですよね。なんだけど、それをいまこの時代に映画化するにあたって、とっても繊細なバランス感覚で扱っていると思いました。

たとえばフェレイラが言っている、「ニッポンにはキリスト教は根付かねぇ」説(※宇多丸註:RHYMESTER『ウワサの真相』Mummy-Dパートのフロウで)に対して……まあ、それなりの説得力はあるわけです。日本人が聞いていても、「まあ、そうかもしれないけどさ」っていう感じがする説ですよね。に、対して今回、映画オリジナルのあるラストが付くわけですね。あるラストショット。まあ、“ザ・『市民ケーン』”なラストショット。映画的サービスが付くんですけども。ちょっと一見やりすぎ? これ、見せすぎ?っていう風に一瞬思うんだけど、最後にロドリゴさんが持っている「アレ」が、そもそも誰からもらったものなのか?っていうことを思い出してみれば、フェレイラ説を相対化する、また別の回答がしっかりロドリゴにはあったんだ、たどり着いていたんだっていう風に(考えられる)……つまり、あれを見せるのは(作品全体のメッセージ的バランスとして)やっぱりあった方がいい、ということも言えると思いますし。

キリスト教というか、17世紀イエズス会宣教師が考えるカトリシズムのあり方とか、その日本での受容のされ方についても、全体として非常に、とてもフェアなバランスが取られていたと思う。たとえば、絵踏みっていうのをする時に、ロドリゴの方を彼ら(絵踏みをさせられている日本人)がいちいち見るんですよ。それは、後半でフェレイラが言う「彼らが死んだのはお前のためだ」という(主張とも対応している)……その、「絵踏みというのがなぜ日本人には効果的だったのか?」というところも含めて、非常に鋭い描き方をしているなという風に思いました。それ(全体のバランス感覚)はもちろん、たとえば原理主義と排外主義の対立だとか、今日的、普遍的テーマに開かれていくための、必須の配慮であるという風なことですね。だからこそ、見終わった後に、猛然とみなさん、いろいろと議論したくなると思います。

で、今回の『沈黙』がすごくいいのは、そのテーマ的な立派さに対して、映画としての美しさ、気持ちよさが、ちゃんと一致しているところだと思いますね。まず、これ見よがしな映画音楽は流れないんだけど、無音の使い方とか、そこに対しての音の入れ方がすごく見事。たとえば冒頭の、自然音だけなんだけど、その自然音がだんだん……言わば「自然音のBPM」が早まって、フッと(音が消えて)『沈黙』っていうタイトルが出る、あの(間の)かっこよさであるとか。あるいは、モキチがロドリゴに、「あっ、十字架……(久々に見ていなかった)十字架だ」って(心情を顔に表す)。で、こうやって渡されるところで、それまでの無音シーンがはじめて破られて、「リー、リー、リー」って静かにコオロギの音が鳴り出す。それによって空気が和らぐ、という表現であるとか。

あるいはクライマックス。神を否定したその後、ニワトリが3度鳴く。これはいわゆる「ペトロの否認」っていうキリスト教のエピソードにオマージュを捧げている(音の)使い方をしていたりとか……非常に考え抜かれている。もちろん、心の奥までズカズカと入り込んでくるような、あのナレーションの響き方とかまで、本当に音は、すごい使い方をするなと思いました。もちろん映像もね、たとえばさっき言った、ロドリゴとガルペがうっかり人目に触れてしまうところ。鳥、トンビかなんかが飛んでいるところをヒューッと追っていったらフッとこう……いわゆる「二度見」カメラで(笑)、フッとパンで戻って、そこに人がいる!ってわかる、あの映画的スリリングさ。全体に早いパンショット、シュッとシャープなパンが、すごく効果的に使われていましたし。あと、割と原作通りのところですけど、あの、白い地面の上に、スーッとついた「赤い筋」の鮮烈さであるとか。そこに至る手前のところの、緩急の間とかも最高ですね……だと思いましたね。映画として本当に素晴らしい。

で、ラスト20分。原作の最後につく、要するに古文書仕立てというか、「切支丹屋敷役人日記」っていうのが(原作小説の)最後に出てくる。(そのパートが)今回はオランダ人商人の手記という形になっている、要は後日譚。結構20分ぐらい、長めに続くんですよね。「えっ、これまだ続くの?」って思う人、いるかもしれませんけど、こここそがスコセッシ作品のキモというか。「ああ、スコセッシ、一貫しているわ。これ、やっぱりスコセッシの映画だわ」っていう。要は、こういうことですね。「負けたけど、世間から見下げられ果てた存在になってしまったけど、実は魂の奥底には、芯が一本通った、折れない何かがあった。もしくは、折れないように踏ん張ろうとしていた、この男は」っていう話で、スコセッシの作品はやっぱり一貫したものがあると思います。

もちろん、「身も蓋もない力の論理に対して、そうではない人生の価値というのがあるのか、ないのか?」という問いかけ。これもスコセッシは毎回やっていると思いますし。ということで、先ほどスコセッシのカトリック路線ということで、ちょっと予想としてはいろいろあったんですけど、そんなことはなかったです。小難しくない。普通にちゃんと「面白い」ですし、スコセッシのフィルモグラフィー上でも、結構俺は上位に来る作品が来てしまったんじゃないかな? と思います。ぜひぜひ、劇場でウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 〜 来週の課題映画は『マグニフィセント・セブン』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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