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放送中

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  • コラム

第46回放送『京都・大政奉還関連施設』

コンシェルジュ沓掛博光の旅しま専科
徳川第15代将軍慶喜が大政奉還を表明した二条城の唐門

徳川第15代将軍慶喜が大政奉還を表明した二条城の唐門

 京都市観光協会が主催する「京の冬の旅」は51回目を迎え、3月18日までの期間限定で市内の寺院など14か所で非公開の文化財を特別に公開している。今年のテーマは150年目の節目にあたる大政奉還。そこで大政奉還に関連した施設を紹介しよう。

二条城二の丸御殿は国内に残る唯一の御殿群で、江戸初期の造営。御殿内の大広間で大政奉還が表明された

二条城二の丸御殿は国内に残る唯一の御殿群で、江戸初期の造営。御殿内の大広間で大政奉還が表明された

 大政奉還は広く知られているように慶応3年(1867)に徳川第15代将軍慶喜が政権を朝廷に返上し、265年にわたって続いた幕藩政治に終止符を打った歴史的な政変である。鎌倉時代から続いた武家政治の終焉も意味していた。その主たる舞台は朝廷のあった京都。まずはその中心となった二条城を訪ねてみよう。二条城は京の町のやや西側にあって、天皇の住む京都御所の守りと将軍が上洛した折の宿泊所として慶長8年(1603)に建てられた。天守閣と本丸御殿は焼失し、本丸御殿は明治期に移築されたものだが、国宝の二の丸御殿とその前に広がる特別名勝指定の二の丸庭園が往時の姿をとどめている。この二の丸御殿は江戸時代初期に完成した住宅様式の書院造の建物で、全部で6棟からでき、国内唯一の御殿群である。建物内には金地を基調にした豪華な障壁画がおよそ3600面が飾られ、徳川将軍の権威と豪勢さを示している。この中程にある大広間が大政奉還を表明した部屋である。松の絵を背にして奥に一の間があり、手前に二の間が広がる。将軍慶喜は旧暦10月13日、ここで在京の40藩の重臣を前にして、260余年に渡って続いた徳川幕府の政権を朝廷に返上することを伝えたのである。薄明りの中に鈍く光る金色の襖はその栄光と落日の影を映しているようにも見える。

3月18日まで特別に公開されている二の丸御殿中庭。御殿の裏側にあたり簡素な造り

3月18日まで特別に公開されている二の丸御殿中庭。御殿の裏側にあたり簡素な造り

 御殿を出て庭にまわれば二の丸庭園が広がる。手前に池があり、その中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造の庭園で小堀遠州が改修したと伝えられている。大きな石組に枝を広げた松などの木々が調和し、美しさの中に力強さが込められた造りになっている。この庭園から内堀を渡ると本丸庭園と本丸御殿、そして天守閣跡に通じる。本丸御殿は天明8年(1788)に京都市内の大火により焼失し、天守閣は寛延3年(1750)の落雷により焼失。現在の本丸御殿は明治時代に御所内の宮家の御殿を移築したもので天守閣は石垣を残すのみである。再び二の丸御殿に戻り、その背後にまわると特別公開として二の丸御殿中庭を見ることができる。ここは言わば御殿の裏側にあたるところでどことなく殺風景な風景だが、飾られた御殿とは違う素の姿を見ることができて興味深い。

砂利が敷かれた京都御所内に立つ京都御苑。大政奉還後、遷都に伴い天皇は東京へ移られた

砂利が敷かれた京都御所内に立つ京都御苑。大政奉還後、遷都に伴い天皇は東京へ移られた

 二条城から今度は東寄りに少し行くと京都御苑があり、その中に京都御所が立つ。京都御苑は東西約700m、南北約1300mと長方形をしており、総面積は92ヘクタールと広大。ウメ、サクラやケヤキ、マツなどの木々が枝を広げ一年を通じて緑や季節の花に包まれ、歴史的な施設と同時に京都市民のオアシスにもなっている。砂利が敷かれた苑内とその中ほどにあって築地塀(ついじべい)が囲む御所は鎌倉時代末期から明治2年まで続いていた皇居の姿を現在に伝えている。
 御所はその面積がおよそ11万平方mで、現在は事前予約なしで年末年始と月曜日及び特別行事の日など除いて1年を通じて見学することができる。清所門から入り、重要な儀式を執り行う紫宸殿、平安時代までは天皇の日常の生活の場で、その後は儀式に使われた清涼殿などの建物を巡る。これらの建物の多くは安政2年(1855)に再建されたものだが、平安時代から続く天皇の政治の場、生活の場を垣間見ることができる。紫宸殿や清涼殿の先に大政奉還に関連する建物の小御所(こごしょ)が立つ。大政奉還を受け、朝廷方は徳川幕府及び徳川慶喜の処遇をここで決め、後にこれを小御所会議と呼んだ。昭和29年に焼失し同33年に復元された寝殿造りと書院造りを併せ持った優雅な建物で、もともとは皇太子の元服や会議などに使われたところである。見学路はこの後、御池庭や安土桃山時代以降の天皇の住まいとなった御常御殿(おつねごてん)などを巡って清所門から出る。砂利が敷かれた苑内を散策しながら平安時代の余韻にひたるのも京都御苑の魅力である。

金戒光明寺に残る謁見の間。京都守護職の会津藩はこの寺院に本陣を構え、藩主松平容保は近藤勇らの謁見を受け、新撰組誕生の道を開いた

金戒光明寺に残る謁見の間。京都守護職の会津藩はこの寺院に本陣を構え、藩主松平容保は近藤勇らの謁見を受け、新撰組誕生の道を開いた

 京都御苑からさらに東へ、東山36峰のふもとへ向かうと、ここに京都の人達が“くろ谷さん”と親しみをこめて呼ぶ金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)が立つ。浄土宗の開祖法然上人(ほうねんしょうにん)が840年ほど前の承安5年に比叡山での修行を終えて最初に念仏道場を開いたところで、法然上人の御影を祀る御影堂(大殿)、三重塔、阿弥陀堂などの諸堂と上人の生涯と浄土宗の教えを表した紫雲の庭などが市中を眺める台地に広がる。この寺はそうした名刹と共に、幕末の動乱期に京都守護職を務めた会津藩藩主松平容保(かたもり)が本陣を置いた寺院としても知られている。大政奉還がなされる5年前の文久2年(1862)に1000名の藩士と共に京都に入った容保はここに本陣を置き、江戸より上洛する将軍慶喜の警護と市中の見回りにあたった。翌年の文久3年には江戸より上ってきた浪人組の近藤勇、芹沢鴨らとこの寺院内の方丈において、謁見を受け、浪人組を会津藩預かりとし、会津藩の指揮下で行動することが決定された。新撰組の事実上の誕生である。その部屋は今、謁見の間と呼ばれ、昭和9年に焼失したが、11年に復元され、金の襖を四方にめぐらした当時のたたずまいを伝えている。

会津藩士が脱出に際し、寺院内に残していった鎧、兜などの武具。賊軍といわれなき汚名をそそがれた会津藩の苦悩が伝ってくる品々である

会津藩士が脱出に際し、寺院内に残していった鎧、兜などの武具。賊軍といわれなき汚名をそそがれた会津藩の苦悩が伝ってくる品々である

 謁見の間の隣には、藩主容保の直筆による京における自身の気持ちを詠んだ歌や長州・薩摩藩との戦いで急きょ脱出し、本陣に残したままの鎧、兜などの武具一式が展示され、賊軍といわれなき汚名をそそがれた会津藩の末路と藩主の深い苦悩が偲ばれる。境内の東寄りには、そうした戦いで死亡した藩士達の霊が眠る会津墓地も設けられ、紫煙が絶える日はないという。

問い合わせ:京都市観光協会 ℡075-213-1717
交通   :東海道新幹線京都駅下車

なお、「京の冬の旅」を楽しむのに、京都定期観光バス特別コースが便利。
今回紹介した大政奉還ゆかりのコースを巡る「うるわしコース」(大人9200円)など
「京の冬の旅」のテーマに合わせて非公開文化財など巡る様々なコースが用意されている。