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【映画評書き起こし】宇多丸、『この世界の片隅に』を語る!(2016.11.26放送)

ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

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「映画館では、今日も新作映画が公開されている。
 一体、誰が映画を見張るのか?
 一体、誰が映画をウォッチするのか?
 映画ウォッチ超人、シネマンディアス宇多丸がいま立ち上がる――
 その名も、週刊映画時評ムービーウォッチメン!」

宇多丸:
ここから夜11時までは、劇場で公開されている最新映画を、“映画ウォッチ超人”こと“シネマンディアス宇多丸”が毎週自腹でウキウキウォッチング。その監視結果を報告するという映画評論コーナーでございます。今夜扱う映画は先週「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して……一度は『ミュージアム』のカプセルが出たものの、特別ルール「タマフル・クラウドファンディングシステム」で番組スタッフから集まった4万円からランダムで番組構成作家・古川耕の1万円札を引き当て、再度ガチャを回しようやく当たったこの映画……『この世界の片隅に』!

(BGM:コトリンゴ『悲しくてやりきれない』が流れる)

漫画家・こうの史代の同名コミックを、『マイマイ新子と千年の魔法』などで知られる片渕須直監督がアニメ映画化。第二次世界大戦下の広島・呉に嫁いできた18才の女性すずが慎ましくたくましく、懸命に暮らす姿を描く。ヒロイン・すずの声を演じるのは能年玲奈から改名したのんさんということでございます。ということで、公開して以降この番組にももう「やれ! やれ!」というメールをいっぱいいただいておりまして。世評も非常に高く、劇場もいっぱいだということも聞いておりまして。ようやくこんな形で。古川さんがね、「1万円なら安いもの」という名言を残してクラウドファンディングを……偶然ね、古川さんのを引いてしまったわけですけども、当てさせていただきました。

ということで、この作品をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールなどでいただいておりますが、メールの量は……とても多い! 今年最多というわけではございませんでしたが、まあ公開規模を考えるとね、だって『シン・ゴジラ』だ『君の名は。』だと比べると、全然少ないわけですから。しかも、賛否の比率が異常なことに。というのも、メールのほぼ95%が絶賛、ないしは褒める意見。この投稿量でここまで絶賛が並んだのは過去に例がない。「今年ベスト」という声はもちろん、「生涯ベスト」という人も少なくなかったそうです。

「感動と衝撃で言葉にならない。ただ作ってくれたことに感謝」「なにげない日常シーンが素晴らしく愛おしい」「生まれて初めてあの時代を歴史としてではなく、身近な日常の延長として感じることができた」「のんさんの声、演技も最高」などが主な声。また、初メールの方も多かったようですし、広島の方やクラウドファンディングに参加していたという方などの投稿もございました。みなさん、ありがとうございます。それでは、代表的なところをご紹介いたしましょう……。

(メール紹介中略)

あと、ラジオネーム「豪華」さん。「2回とも、立川シネマシティの極音上映にて見てきました。1回目は会社の友人たちと鑑賞。2回目は、一緒に暮らしている祖母が自分が買ったパンフレットを見て、『この映画、どんな映画なのかえ? 見てみたいねえ』と興味を持ち、普段腰が悪くあまり外に出たがらない祖母が興味を持ってくれたことがうれしく、車で祖母と見に行きました。鑑賞中、祖母は大号泣。鑑賞後、祖母に感想を聞くと、うちの祖母は戦争終了直前に生まれ、戦時中の記憶はあまりないそうですが、祖母の母も生前すずのような明るい人だったそうで、祖母自身は義姉の径子のように自立した女性になりたがっていたため、あまり打ち解けることができないままだったそうで、祖母はこの映画を通じて自分の母の明るさの裏側を感じ、ひとつ折り合いがついたようでした」。

これはすごいね。

「僕は、『私の母もすずさんと同じように戦争と戦っていたのかねえ?』と笑う祖母の顔がとても印象的で、その作品を実現してくれた全ての人に感謝を捧げたい気持ちでいっぱいになりました。祖母と僕の心の1本です」

ここまででもう1本の、『この世界の片隅に』だよ。ここまでで、もうできちゃっているね。すごいですね。

(メール紹介中略)

……はい。ということで『この世界の片隅に』。またコトリンゴさんのこの歌がさ、そもそも催涙効果があるんですよね。もうね。この間まで一緒に(KIRINJIツアーで)ステージに立っていたとはちょっと思えませんけどね。ということで、私も109シネマズ二子玉川など、結局3回見ちゃいましたけどね。めちゃめちゃ混んでいて、二子玉ぐらいまで行かないと見れないなと思って行ったんですけど、都内はやっぱり結構大入り満員で。ユーロスペースとか結構見るの大変だろうなと思って。二子玉も、結構デカい劇場だったんで満員じゃないけどもほぼほぼ満席ぐらいの感じで。逆に、ちょっと地方で見たという(番組アドバイザーの)せのちんさん曰く、地方は結構ガラガラだったりもするみたいなんで、これはある意味、ちゃんと評判を広げるという意味でも、古川さんの1万円、有効にこの番組で使わせていただきたい。扱う意義もあるんじゃないかという。

というぐらい、最初にまず僕がどういうテンションか?っていうのを言っておきます。僕のテンションね。……5千億点ですね。5千億点! もう、点数表現インフレが進行しすぎて、これを言ってもみんなピンと来ない(笑)。私もピンと来なくなっていますけども。とにかく、5千億点です! 5千億点。間違いなくこれは日本アニメ史上に残る、というか、日本映画史に残る大傑作。まあ、いずれ名作とされていくであろう、明らかにどう見ても特別な1本ということなんじゃないでしょうか。はい。本当にこれはしょうもない話なんですけど……クラウドファンディングね。要するに、(映画の)制作が決定する前にクラウドファンディングでお金を集めてパイロットフィルムを作るという。そのクラウドファンディングに……チクショーッ! 金を出しておくんだったーっ! ものすげーえばれたのにっ! とか(笑)。

あと、またしょうもない話、TBSラジオの製作陣、(映画の)製作委員会の中に『タマフル』の前のプロデューサーでもある野上さんのクレジットがあって、チクショーッ! 橋Pなんか『あしたのジョー』なのに!っていうね。こういうですね、ジェラシーを感じるぐらい、まあ正直参りました。参りました! すいません! サーセンしたっ! 本当に。すげー! ということでですね。

まず1回目は私、割とまっさらな状態。原作とかも僕、読んでいなくてですね。そういう段階で初めて見て、ガツーンと食らって、そこから原作漫画を読んだり、公式資料に触れたり。あと、片渕須直監督の過去作を見直したりとかですね、からの2回目、3回目というのをやっていくと、ますます『この世界の片隅に』という今回の映画が、本当にカットの隅から隅まで、調べぬかれ、考え抜かれ、磨き上げ抜かれた、もう見事な結晶だということがわかって、改めてさらに感動が増すというですね。もう味わっても味わっても、どんどんどんどん、「これ、すげーな! 思っていたよりもっとすげーな!」というような作品でございました。

で、そもそもまずこれ、もともと読んでいてご存知の方に言わせれば「なにを、いまさら」っていう話でしょうけど。こうの史代さんの原作漫画がもうすでに、ちょっととてつもない大傑作なんですよね。いまさらで申し訳ないですけども。まあ、徹底した調査、考証ですよね。歴史の考証と、同時に、漫画ならではの可能性を追求した実験の数々。コマひとつひとつ読み取れる情報量の多さ。もう1個1個のディテールに情報量がめちゃめちゃ入っている。言葉じゃなくても入っているっていうのを含めて、僕はほとんど(『ウォッチメン』『フロム・ヘル』の)アラン・ムーアを連想したぐらいです。はっきり言って。自分で絵を描いている分、こうのさんの方が偉いぞ! ぐらいの。コマ割りの実験とかもやっているあたりとかも、すごくアラン・ムーアを連想したぐらいなんですけど。

とにかく、全てに計算が行き届いている、すさまじい作品でございました。あと、たとえば漫画アクションで実際に連載していた時はですね、たとえば劇中の昭和19年○月っていうのと、現実の連載中の平成19年○月っていうのが完全にシンクロしている。昭和19年と平成19年が完全にシンクロして、リアルタイムで○月、○月が進行していく。だからつまり、登場人物の生活感とこっちが地続き、完全にシンクロして感じられるという、恐ろしいことをやっているわけですよ。ということで、未読の方は、僕がいまさら偉そうに言うことじゃないですけど、ぜひぜひこうの史代さんの原作漫画を。映画の方にやられた方もぜひ、さかのぼって読んでいただきたいんですけども。

で、こうしたこうの史代さんの原作漫画が、片渕須直さんというアニメーション作家の資質と、もう最高レベルでマッチしていて、結果として1+1が2以上のケミストリーを起こしたっていうのが、今回の劇場用長編アニメーション『この世界の片隅に』という作品であるという風に私はまず言えると思います。どういう話か?っていうのは、実はもうタイトルに全部わかりやすく集約されていますよね。『この世界の片隅に』っていうこのタイトルに。要するに『この世界の』の“この世界”っていうのは、この作品で言えば、要は戦争であるとか、国家であるとか、政治であるとか、経済であるとか、思想だとか、まあ全部ひっくるめて「歴史」みたいなことね。そういう大きな話、「大きな物語」。これがまあ「世界」ですよね。で、大作エンターテイメントなんかはそういう大きな歴史の……たとえば(『アラビアのロレンス』などの)デビット・リーンとかはこういう大きな歴史の方を描く。これがまあ、エンターテイメントの王道のひとつであるわけですけど。

ただ一方でその「片隅」というか、その足元には、我々のような1人ひとりの人間の、日々の暮らし、営みっていう……そういう歴史とか、「フィデル・カストロが死んだ」(※注・放送当日の2016年11月26日にフィデル・カストロ氏が死去)とかと比べれば、もうあまりにも取るに足らない、「おしっこを漏らした」とかそういう小さな話、「小さな物語」っていうのが無数にあるわけじゃないですか。それこそたとえば、毎日ご飯を作って食べるとか、その材料を買ってきたり、どっかから取ってきたり。それを加工したりとか。あるいは、そうやって口に入れるもの。水とかも含めて、口に入れるものをうんせうんせと運ぶとか、毎日掃除したり修繕したりして住む環境を整えたりとか。毎日着る服を洗濯したり、時には修理したり、畳んだりするとかですね。

で、まあその中でドジったりケンカしたりとか、しょーもないことがいっぱい起こるという、とにかくそういう日々の細々した営みね。要は、普通のエンターテイメントではそれ自体がドラマであるとはあまり見なされないような、そういう細々した日々の営み、小さな小さな物語っていうのの側から、さっき言ったような歴史とか国家とかそういう大きな物語っていうのを浮き彫りにする。もっと言えば、その小さな物語側の視点から、結果として大きな物語を鋭く批評してしまっているというような。ざっくり要約すれば、『この世界の片隅に』っていうのはそういう作品なわけですよ。で、このテーマがアニメーション……わけても片渕須直さんという作家がこれまでこだわり抜いて作ってきたアニメーション作品の要素というか、こだわりのポイントと、最高に相性がいいっていうことだと思います。

『マイマイ新子と千年の魔法』とか、あと同じこうの史代さんと組んだ『花は咲く』の『みんなのうた』のアニメバージョンであるとか。の、延長線上のさらに究極形というかですね。要は、そういうさっき言った日常の細々とした営みっていうのを、生身の人間が演じれば、まあなんてことはない、そのままの動作ですよね。日常の生活をそのまんまやったという。そういう日常生活の様々な動き・アクションが、これ、アニメーションで丁寧に描かれると……特に今回の『この世界の片隅に』では、その原画の動きと動きのカットの間に中間ポーズを描く、いわゆる「中割り」っていう中間ポーズカットを、通常の日本アニメだとそれを「中抜き」って言って、それを飛ばしてスピーディーな動き表現をしていくのが日本アニメなんですけど、その中割りを丁寧に、より多くしっかり入れていくことで、「本当に動いている」(感じがする)、連続した動きの感覚っていうのを強調しているという。ここをこだわったというのが今回の『この世界の片隅に』だそうなんだけど。

とにかく、アニメーションで、丁寧に動き表現をやることで、日常の動作それ自体が、すごく喜びとともに表現され得るっていうか。「ああ、そこにある! そこにいる! 本当に動いている!」っていう感じが、日常の動き自体に価値が生じさせているっていうことですね。これは以前、細田守監督に当番組にゲストでだいぶ前にお招きした時に、「日常の動作を自然に描くと、アニメーションだとそれ自体がすごくいい。これが実はアニメーションのワンダーな部分なんだ」っていうような話をしていただきましたけど、まさにその話で。その意味で、今回の映画作品『この世界の片隅に』はですね、全編その種の、アニメーションならではのワンダーに満ち満ちた作品であると言えるわけですよ。

たとえば、冒頭からしてですね、主人公のすずが非常にまだ幼い時。広島におつかいで来て、船を下りて、石の階段の横の壁を使って、海苔の入った大きな、体からすると相当大きな箱をこうやって、いったん壁に押しつけてから、風呂敷で背負い直す。この動き、一連の動作だけで、「ああ、本当にこの子は、自分の身体ぐらいの大きさの重いものを背負っているんだ」(と感じる)。イコール、この子は実在するっていうか、「この子は生きている」というこの感覚。かわええの~、みたいなのも含めてですね、それ自体がひとつの表現っていうか、ひとつの「あ、いい!」っていう表現になっている。「命なきものに命を与える」、まさにこれ、「アニメーション(※注・ANIMATIONの語源はラテン語で霊魂を意味する“anima(アニマ)”を命なき者に与えるという意味とされる)」の真骨頂ですよね。冒頭のいきなりひとつの動きでさえ、それがある。

ちなみにその後ね、すずちゃんが広島市の中心部、中島本町という商店街に入っていく。これは現在、平和記念公園になっているっていう。ここにまずね、僕はちょっと東京の人間っていうか、普段は何も考えず生きている証拠として、「あっ!」って思わされて。要は、いま平和記念公園になっている、原爆ドームとかがあるあのあたり。あそこは、そうだよね、街だったんだ!っていう。もう、あそこは平和記念公園だと思っちゃってるから。いまの我々はさ。そうだよ、ちゃんと人が生きていた街だったんだ!って、まずここでハッとさせるっていうだけでももう、ありますし。

で、そこの建物などの考証はもちろんのこと、戦前のあのあたりを知っている……もちろん、そこに暮らしていた人は原爆とかで亡くなられちゃっていたりするんだけど、たまたま疎開して難を逃れたような人、当時は子供だったような人に話を聞いて、レイアウトを見せたりしてチェックをしてもらって、建物だけじゃなくて、「そこにいた人たち」の考証までしている。NHK広島の番組でちょっとそれを紹介していて。たとえば後ろに一瞬だけ映る理髪店のお父さん、そして家族たちっていうのは、その時に本当にそこに暮らしていた。で、実際にそこで生きていた理髪店の息子さん、もう(今は)おじいさんですけど、それを見て、「はっ! そこに(本当にご家族が)いる!」っていう(風に感じてらした)……そんなことまで再現して見せているっていうことですよね。

ともあれ、そんな感じで主人公たちというか、戦時下の広島・呉で暮らす人々の暮らしが、とにかく最大級に丁寧なアニメ表現によって本当に文字通り……「生き生きと」っていう表現はよく使われるけど、本当に文字通り、生き生きと実在感をもって描かれているということです。特にやっぱり特筆すべきは、「フード演出(C)福田里香先生」。福田里香先生言うところのフード演出、食べ物をめぐる演出は、もう完全にそれ自体が物語の一部っていうか、はっきり言って物語の根幹ですよね。今回のフード演出っていうのは。それは、食べ物っていうのは、主人公すずたちにとっては、日々の暮らしの中心ですよね。なにを食べるか、なにをどう料理して、どうやって日々の命をつないでいくか。小さき物語の中心にあることなんだけど、同時にその変化っていうのは否応なく……ねえ。どうってことない庶民の、さっき言ったような取るに足らない、物語性なんかないように見える食卓の変化が、実は否応なく大きな物語、つまり歴史とか国家の変貌っていうのを表しているという、そういう風になっている。

で、今回の映画版は、当然のごとく漫画版よりも時間を圧縮して見せている分ですね、言葉やセリフによる……漫画だったら横の枠外にいろいろと説明が書いてあったりするんだけど、そういうのも含めて、直接的な言葉の説明をより省いている分、観客である我々の、映像のディテールとその行間を読むリテラシーがより要求されている作品でもあって。なので、いろいろあるんだけど、たとえばね。すずさんが、すわ妊娠かと、思いきや……っていうくだりがあるんですけど、そこなんか完全に、今回の映画版だとフード演出「だけ」でどういう顛末なのかが「説明される」っていうことじゃないですか。ということで、そこはもう本当に読み取り能力がすごく要求されるわけですけど。一方で、原作漫画にはない、しかし非常に重要かつ有効な……僕、これを付けて本当によかったって思うオリジナル展開が付け加えられてたりすると。

具体的には、終戦の日のエピソードなんですけど。終戦の日に、そこでご飯を炊いて改めて食べるというエピソードが、今回の映画版は追加されているんだけど、そこでたとえばご飯を炊くかまど。そのかまどからのぼる煙がね、まさに日々の暮らしを体現しているわけですよ、このご飯を炊いている煙は。それが、あちこちの家からあがってくる。しかも、そのあちこちの家から(かまどの煙が)あがってくショット、同一画角のショットがこの映画は全体にものすごく効果的に散りばめられていて。同じ画角なんだけど、そこ(から読み取れる変化)から、「あっ、暮らしが戻ってきた」っていう感じがパッとわかるようになっていて、それも見事だし。メシを炊くかまどの炎と、それと対照的に、男たちが虚しく戦争の後始末をする炎とが、見事に対比されていて。これによって、要するに全体を貫く、食べ物とかそういうものを作る「小さな物語」vs戦争、政治、思想、国家っていうような「大きな物語」っていうこの対比構図が、もう見事な形で決着するという。これ、映画版の最高のプラスアルファだと思います。こんなものが付け加えられていたりとかですね。

ということで、事程左様にですね、フード描写だけじゃないんですよ。暮らし全般です。たとえば、その終戦の日のご飯を食べている場面で言えば、灯火管制の布が(灯りに)かぶせられているわけですね。光が外に漏れないように。戦時中は完全にかぶっている。ちょっと戦局が悪化してきた頃は半分かぶっている。そういうところでもまず、もうここにも物語的ディテールがありますし。あるいは、花。序盤のツバキの花の使い方であるとかね。着ているものもですよ、柄とか色をよく覚えておいてね。すずが嫁入りの時に持ってきた着物。終盤でどうなりますか? これ、よく見ておいてくださいよ。とか、あらゆる細かな生活のディテールが、そのまま物語、ストーリーテリングに直結しているという、そういう作りなわけですよ。

なので、1回見ただけではわからない情報量。本当に詰まっている。だから126分あるけど、結構あっという間に感じるのは、その情報量を読み取るので頭がフル回転しているからだと思いますね。基本はね、軽いオチが毎度終わりに来る、本当にコミカルな、軽いタッチの生活漫画なんです。本当に、『おじゃまんが山田くん』みたいなことなんですよ。だから、強力なストーリー的推進力はないはずなんですよ。本当はね。なんだけど、これ、まずストーリー的推進力となる強力な仕掛けは、やっぱり「日付け」ですよね。我々はその日付け(によって後に何が起こるかを歴史的に)を知っているから……カウントダウン感というか、「その冬は寒くて早く春になれと思った(昭和20年)」というのに、「いや、時間はたたない方がいいんじゃないの……」って思ったりとかですね。それ自体が巨大なサスペンスになっているという、そういう作りになっていたりとかですね。

あと、ずーっと地を這うような日常の細々した視点なんだけど、あるところで、たとえば極端な鳥瞰視点。もう俯瞰を超えて鳥瞰しているんですよ。つまり、B-29から見た視点とか。極端な鳥瞰視点っていうのの、それ自体の暴力性ですよね。もう完全に「人」っていう感覚を奪ってしまう、その極端な鳥瞰視点の暴力性であるとか。あるいは、音の演出ね。義理のお母さんが「大ごとだと思っていた頃が懐かしい」って話すあの場面。実はずーっとその場面、後ろで不穏に飛行機の音がずーっと流れている。そして、「大ごとだと思っていた頃が懐かしい」って言うのと同時に、一見のどかに見える畑の光景では、兵士の出征をこうやって「バンザーイ!」ってやっている人もいれば、飛行機の影がブーン! ブーン!って通る、この暴力性ね。みたいなところで、実はその合間合間にそういう暴力的なディテールが入ってくるというところで話を引っ張っていくのも、非常に見事な語り口ではないかと思います。

あとね、先ほどから言っているように、その“小さな物語対大きな物語”っていうこの構図は、実はさっきから言っているような、“庶民対歴史”とかね、“庶民対国家”とか、そういうレベルだけじゃなくて、すずさんという昭和元年生まれの女性(※宇多丸註:正しくは1年早い「大正14年生まれ」でした! 訂正してお詫びいたします!)。要するに、決して自分の気持ちを直接は口にしないし、行動にも滅多に表さない。が、ゆえに、絵にそれを託している人。で、それが途中で奪われてしまうっていう話だけど。と、その彼女を取り巻く……彼女の内面と、彼女を取り巻く、たとえば結婚を含めたかつての「イエ」制度みたいな、そういう対比・対立。彼女とその外側の対立っていう、これも大きさの差こそあれ、小さい物語と大きい物語の対立であり対比っていうことになって。その大小の個vs世界の構図が折り重なっているんですよね。それが年月とともに変化していく様子が、直接的には語られないのも含めて、すごく味わい深いドラマを醸し出していくと。

たとえば、旦那さんとの関係の変化であるとか、義理のお姉さんとの関係の変化っていう。それを通じて、彼女がその「イエ」の中でどう折り合いをつけていくのかとか、そういうのも含めて、そこのドラマも、“小さな物語対大きな物語”の戦いであるという、非常に重層的な話でもある。その意味で、たいへん大人な作品です。本当に。実はすごーく色っぽい瞬間もいっぱいあるし。ああー、時間がないな。

あと、これもちゃんと言っておかなきゃいけないのは、先ほどから言っているのは、言わば自然主義的な表現ね。動きとかをすごく自然主義的に表現しているのと同時に、たとえば、とある場面で強烈としか言いようがないインパクトを残す、ノーマン・マクラレン風と言うんでしょうか、カリグラフィ風のね、実験映画風の表現であるとか。原作にならって「左手で描いた背景」っていうのが出てくるあたりであるとかですね。あるところでは画面全体が水彩画になったりとか。もう今はない右手の記憶っていうのがすごく抽象的な表現で出てきたりとか、そういう非現実的だったり、言ってみれば表現主義的だったりするところも要所で出てくるわけです。

これ、どういうことか? というと、この作品は要は、いわゆる単なる「リアリズム」じゃないんですね。そういう単なるリアリズムっていうのはむしろ、さっきから言っている「大きな物語」的な発想じゃないですか。そうじゃなくて、「主人公すずさんの目から見たリアル」を描いているから。そういう日常描写とかはものすごく自然主義的にリアルだし、彼女から見て超現実的に見える光景は、たとえ現実であっても超現実的表現になっているという。まさにスーパーリアリズムとか、そういうことだと思いますけども。原作漫画ならではの実験表現を、アニメ映画に置き換えてアレンジしているっていうことでもあると思いますね。

ああっ、もう時間がない! コトリンゴさんの音楽がいい、とかいろいろあるんですが。ということで、とにかく題材・テーマと、アニメーションならではの表現っていうのが完璧なケミストリーを起こしている作品だという風に思いますね。そして、そのケミストリーの決定的なファクターが、やっぱりこれはのんさんですね。「のんさんはすずである」というか。ちょっとまる子ちゃん風というか、かわいくもあり、古風でもありみたいな話し方なんだけど。で、完全に天然なんだけど、それをチャーミングに体現しつつ、その奥にある影の部分であるとか、芯の部分みたいなものもちゃんと表現している。のんさんイコールすずという、これを完全に体現できたところが、このケミストリーの完成形の最後のピースということじゃないでしょうかね。

たとえば、水原っていう幼馴染と一夜をすごした時に、急にすずさんが大人っぽい声になるんですよね。あそこで「水原さん……」って。急に「えっ?」っていう。あのあたりとかも本当に見事でしたね。他の方も本当に素晴らしかったです。原作からの改変で、たとえばリンさんというキャラクターのエピソードは、ちょっと(今回の映画版の)劇中にはないセリフが回想で出てきたりして、多少端折り感があったりしますけど。とか、終戦の日に慟哭しながらのセリフ……でも、ここはいい改変でしたね。より生活視点から「大きな物語」を見ている。食べ物っていうところから、ある意味自分も日本の帝国主義の一部だったのかということが浮かび上がるという。若干、頭でっかち感がなくもないけど、僕はこれはこれでひとつの正解な改変だと思いますし。

ラストのね、戦災孤児。これ、頂いたメールの方の解釈がよかったですね。あれは要するに、かつてのリンさんの姿を見ているんだという、これはいい解釈だと思います。で、あそこで終わるんじゃなくて、映画オリジナルのエンドロールがつくことでより救われるっていうのもありますし。やっぱり現代につながっていく感ですよね。それこそラストは『マイマイ新子』の時代に接続するわけですし。現代との地続き感で終わらせるという意味で、非常にこの作品、意義深い終わらせ方にアレンジしているんじゃないでしょうか。本当に1カット1カット、味わい尽くし足りない。たぶんこれから何度も見るたびに、「ああ、ここはこうなのか」って。いちいちよくできているんだ。あの「時限爆弾には気をつけろ」っていう注意が聞こえないのには、やっぱりそれなりにちゃんと理由がある演出をしていたりとかですね。何度も見返したいと思います。

あと、これも言っておきたい。驚くべきことに、いままでいろいろ言っていますけど、基本めちゃめちゃ「笑える」んですよ、全編。笑える作品。なにが驚くって、その、大きな物語的には最大の悲劇が起こるあの日。あるわけですね。世界の歴史的に、人類史上でも最大級の悲劇的な日ですよ。でも、その日にもやっぱり、笑っちゃうことは起こっているし、それを見せられた我々観客もやっぱり自然に笑っちゃっているわけですよ。「そりゃイヤミかね?(観客ドッ!)」っていう。ねえ、これですよ。大きな物語というものに、この作品自体がやっぱり屈していないんですよね。そこに本当に感動します。

ということで、普通に見ていて楽しい作品であると同時に、帰る時にはドスンと来るという。『火垂るの墓』と『となりのトトロ』が鬼の2本立てって言ってますけども、それを完全に融合したというかですね(笑)。恐ろしい1本じゃないでしょうか。間違いなく今年を代表する1本であり、おそらく日本映画史に残る大傑作ということになっていくんじゃないでしょうか。万人におすすめいたします。5千億点!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『ジャック・リーチャー NEVER GO BACK』に決定! 宇多丸曰く、(『この世界の片隅に』のあとに『ジャック・リーチャー』が来るのが)「これが“映画”だよね!」)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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