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“ものづくり日本”の父、ヘンリー・ダイアー

森本毅郎 スタンバイ!

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忙しい朝でもニュースがわかる「森本毅郎・スタンバイ!」
(TBSラジオ、月~金、6:30-8:30)
8時からは、話題のアンテナ「日本全国8時です」
全国ネットで、日替わりゲストとともに放送。
毎週木曜日は、東京大学名誉教授、月尾嘉男さんの「賢くなれる雑学コラム」!

月尾嘉男

12月8日(木)は「“ものづくり日本”の父、ヘンリー・ダイアー」

★工学教育の発展に尽くす

日本では最近、労働力不足の問題もあって、外国人の実習生の拡大の議論が出ています。現場で体験し、手伝ってもらいながら日本のものづくりなどの技を教えるという、日本が教える側の立場になっていますが、昔は、日本は外国人に教えてもらう立場でした。特に、日本のものづくりの原点は、ある1人の外国人にたどり着きます。ところが日本にとって恩人のようなこの外国人がすっかり忘れ去られているので、今日は振り返ってみます。明治時代に日本の工業の発展に貢献したヘンリー・ダイアーという御雇い外国人です。

明治時代に日本は短期間で先進欧米諸国に追いついていきますが、それは明治維新を実現した中心人物の多くが、幕末に密出国して欧米諸国との格差を痛感したことに出発点があります。長州藩からはのちに初代内閣総理大臣になる伊藤博文、内務大臣を勤めた井上馨、初代法制局長官に就任した山尾庸三など5名、薩摩藩からは初代文部大臣になる森有礼、大阪商法会議所(大商の前身)や大阪証券取引所の設立に尽力した五代友厚など19名が密出国しています。それ以外に幕府も初代逓信大臣になる榎本武揚、明治政府で活躍する西周、赤松則良などを留学させています。

これらの人々は欧米諸国に追いつくため様々な分野で外国人を政府の顧問などに雇いますが、その御雇外国人のなかで最も多い分野が技術の指導者でした。1874年(明治7年)の資料では426名の政府の御雇外国人のうち、228名(54%)が工部省の雇った技術者でした。そのような状況の中で、伊藤博文と山尾庸三が1870年(明治3年)に「工部大学校建設の建議」により技術者を育成するための学校を設立する提言をし、伊藤や山尾が密航するときに手配をしてくれたジャーディン・マセソン商会に、校長になる人間の紹介を依頼します。そこで選ばれたのがスコットランドのグラスゴー大学を卒業したばかりで24歳のダイアーだったのです。

★英国名門校を卒業後、来日

イギリスの大学というとオックスフォード大学やケンブリッジ大学を思い浮かべますが、当時、技術の分野で世界最高の大学は1451年に創設されたグラスゴー大学でした。文系では「国富論」を書いたアダム・スミスや、「金枝編」を書いたジェームズ・フレーザー、理系では蒸気機関の改良で名高いジェームズ・ワットや、アインシュタイン以前の最高の天才といわれるウィリアム・トムソンが卒業している名門です。ダイアーはその世界最高の大学(機械工学と土木工学)を主席で卒業したばかりで、突然、東洋の島国に行ってほしいといわれ、多分、複雑な心境だったと思いますが、恩師のウィリアム・ランキン教授の推薦で1873(明治6年)、8人の教授陣とともに日本に到着します。当時の平均寿命は現在より短かったといえ、大学を卒業した直後に発展途上国の大学を創って教育できたと考えると、大変な能力だったと思います。その分、給料は高額で、明治政府のナンバー2である右大臣の岩倉具視の月給が600円のときに、ダイアーの月給は660円でした。なかなか換算は難しいのですが、現在の金額では月給200万円、年俸2400万円程度ですから、いかに期待されていたかが分かります。

★日本の若い才能を育てる

1875年(明治8年)から工部大学校の授業が開始されますが、当然、すべて英語でした。そのようなハンディキャップがあるにも関わらず、ダイアーのもとからは優れた人材が育っていきました。例えば、このコーナーで以前(2016年6月23日)ご紹介した第5期生の田邊朔郎は、6年間の勉強の成果として設計した琵琶湖疎水という大土木事業を自身で工事責任者として完成させたわけですから、大変な能力の生徒が集まってきたことになります。それ以外にも東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾、赤坂離宮を設計した片山東熊、アドレナリンを発見した高峰譲吉、本家のスコットランドで現在は世界遺産に登録されているフォースブリッジという鉄骨の鉄道橋の工事監督をした渡辺嘉一など211名が卒業していきます。

そのような才能ある若者が死に物狂いで勉強することに感動したダイアーは当初の5年契約を延長して、さらに5年の契約をして足掛け10年、日本に滞在し、スコットランドに帰国します。その後、スコットランドで日本について20年間研究し、1904年に「大日本」という大部の本を出版します。これは当時の日本についての百科事典といってもいいような内容で、歴史、文化、教育、軍事、産業、貿易、財政について説明していますが、出版が日露戦争の勃発から半年後であったため、急遽、追加して日露戦争の結末を予測しています。当時、グラスゴー大学に留学していたロシアの将校たちの勉強態度と比較して、日本は絶対に勝つと書いています。

★日本人が必死で学んだ動機とは

しかし、この本でダイアーがもっとも書きたかったことは、文中に「欧米の科学、工業、商業を導入しようと決意した動機を可能なかぎり追求し、確認する必要がある」と記しているように、日本人が死に物狂いで勉強する根源を知ることでした。ダイアーはその回答を1900年に新渡戸稲造が英語で書いた「武士道」に発見し、「明治維新という一大事業を推進する動機となったのは、物質資源の開発や国富の増進ではない。ましてや西洋の習慣の闇雲な模倣の追求でもない。安政の不平等条約を5ヵ国と締結してしまい、世界から劣等国として見下されることは耐え難いという、名誉を重んじる気持ちこそが最大の動機である」と引用しています。現在、日本は激変する国際情勢のなかで苦労していますが、この言葉を思い起こすべきだと思います。

日本に8ヵ月しか滞在しなかった札幌農学校の実質的な初代校長ウィリアム・クラークは「ボーイズ・ビー・アンビシャス」という言葉で多くの人に知られていますが、10年近く滞在して多数の優秀な人材を育てたダイアーは意外に知られていません。それはダイアーが契約を1年残して辞任し帰国したことと関係があります。「大日本」の副題は「東洋のイギリス」となっているように、ダイアーは日本がイギリスのような議院内閣制の憲法による民主国家になることを期待していましたが、1881年(明治14年)の政変で、伊藤博文がドイツを見習った立憲君主制の憲法を採用したことに落胆したことが影響していると思われます。しかし、開国したばかりの日本で10年近く努力して工業大国の基礎を創ってくれたダイアーに改めて感謝すべきだと思います。

月尾嘉男の日本全国8時です(リンクは放送後1週間のみ有効です)http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20161208080000

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