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なぜ島耕作は人生つねにモテ期なのか? 生みの親・弘兼憲史に直撃!

コシノジュンコ MASACA

2017年6月18日(日)放送

ゲスト:弘兼憲史さん(part 1)
1947年生まれ。子供のころ手塚治虫に憧れ、漫画家を志します。早稲田大学卒業後、3年間大手企業に勤めたあと、1974年『ビッグコミック』(小学館)掲載の「風薫る」で漫画家としてデビュー。サラリーマン時代の経験を活かした作品を数多く発表し、代表作『課長島耕作』シリーズは団塊の世代への応援歌として30年以上現在も連載中。2003年、『黄昏流星群』で第32回日本漫画家協会賞大賞を、2007年には 紫綬褒章を受章しました。

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出水:ジュンコさんと弘兼さんはかねてからお知り合いだそうですね?

JK:そう、ズブズブとした関係で(笑)さすがだなと思うのは、飲みながらでもちゃんと周りを見ているんですよね。

弘兼:観察するのは好きですね。今日も電車で来るときに、いろんな人たちの立ち居振る舞いを見てきました。あんまりジロジロ見ると変に思われるので、足元とか・・・ヒールはこの角度からだとこう見えるのか、ズボンのシワはこういう風に出るんだ、とか。そういうのを見て、手の中でデッサンしています。

JK:手の中で! 私はね、電車に乗ると靴を見るの。靴を見て、この人はどんな人かなと想像する。

出水:『島耕作』シリーズにも、普段の観察眼から生まれたアイデアが入っているんですか?

弘兼:アイデアはいたるところに転がってますからね。仕事をしているとき、人と話をしているとき、食事をしているとき、飲んでるとき。全部ネタになります。

JK:ふだんから訓練しているというか、自然とそうなっちゃってるんですね。

弘兼:サラリーマンを3年3か月やったんですが、たった3年いただけで、サラリーマン漫画といわれる『島耕作』を34年間も続けてきた。ものすごいコストパフォーマンスですよ!

JK:石の上にも3年、というけどね(笑)

弘兼:僕は本社の企画部門みたいなところにいて、自分の部署以外のところで会社全体を見ていたので、組織の具合がわりとすぐわかりました。本社だったので、派閥とかもあるんですよ。●●常務派とか、△△専務派とか。あの人がどっかに行くと、この人も、というのが漫画にも役立ちましたね。

JK:でも3年間でそういうことが分かっちゃうんですね。

弘兼:裏情報を見つける方法を手に入れたんです! お局さんみたいな存在がいるんですよ。今考えれば30代だから、若い方だったんですけど(笑)独身で、けっこうニラミを聞かせている女性で、みんな敬遠して近づかなかったんですが、僕は社員食堂で「一緒にいいですか?」と向かい側に座って近づいていったら、だんだん目をかけてくれて。いろんな話をしてくれるようになりました。あの部長はこれが嫌い、この部長はこういうものが好き、こういう言い方をすると怒られる、あの部長とあの女性は昔デキてた、とか(笑) うまく懐に飛び込んで聞き出したというかね。

出水:いいイインタビューワーだったのかもしれませんね。34年間続いていて、課長だった島耕作もいまは会長になりましたが、どのあたりまでが自分の分身といえますか?

弘兼:島耕作はめちゃめちゃモテる設定になっていますが、男の漫画なので、一人のガールフレンドとずっと付き合うというのじゃダメなんです(笑)次から次へといろんな人が現れないと。でも次から次へと変わるときに、自分から口説いて去っていくとセクハラに近いじゃないですか? だから島耕作は34年間1度も口説いてないんです! 結果的にモテるという形になっちゃった。セクハラにならないよう、女性のほうから寄ってきて女性から去っていくから、モテるように見えるれども、実はそういう配慮があったんです。だから僕に似てるところはないです(笑)でも、こういうシチュエーションで自分だったらどういう風に考えるかな、というのはセリフに入っています。考え方としては似ているような気はしますね。

JK:でも自分と混同することはないですか? 34年間もやってると、自分がどっちだかわかんなくなっちゃったり。

弘兼:いろんな漫画を描いているんで。いろんなキャラクターがいますし、漫画の場合はバイプレイヤー=脇役も自分が考えるから、その辺はもうごちゃごちゃです。
課長 島耕作(1) (モーニングコミックス)部長 島耕作(1) (モーニングコミックス)取締役 島耕作(1) (モーニングコミックス)社長 島耕作(1) (モーニングコミックス)会長 島耕作(1) (モーニングコミックス)

出水:世の中の情勢の切り方ですとか、くみ取り方というのも漫画の中に入っていますよね。最近だとミャンマーでの農業、漁業、お酒を売り込んでみたり、AIが出てきたり・・・。

弘兼:島耕作は社長までは社業をやっていたわけですが、会長になると経済団体とかそういう組織に入って、日本の経済のためにある意味ボランティアみたいなことをするんです。島耕作も、本来は電機業界なんですけれども、農業もやるし、いまは医療もやっています。『島耕作』は海外で働くというのがコンセプトなので、NYとか、主に中国が多かったですね。取締役になって中国に行き、インド・ロシア・ブラジル・・・ある意味、情報漫画なんですよ。

出水:『島耕作』を読んでいると、その時の社会情勢だったり、これからの中国の成長産業が分かるようになっているということですね。

弘兼:そこが狙いですね。半分エンターテインメント、半分情報みたいなスタンスで描いています。

出水:じゃあ漫画も描きつつ、TVも新聞も雑誌もチェックして、お忙しいですね。

弘兼:新聞は読まないですね。読んでる時間がないんです。自分が出してる本も読んでない。だから、時々読むと、こんなこと言ったかな?というのが多い。時間がないんですよ。だから結局、耳から情報を得る。漫画を描いてるときにラジオやTVで情報を追っかけています。ラジオは良く聞きますね。

JK:子供のころは、どんな漫画を読んでたんですか?

弘兼:ほとんどの漫画家さんがそうだと思うんですが、手塚治虫さんの漫画。ちょうど手塚先生が「トキワ荘」でやられていた時で・・・

JK:そこに漫画家の方がいっぱい集まってたんでしょ?

弘兼:藤子不二雄さんとか、赤塚不二夫さんとか。そういう方が集まって、彼らが描いた漫画を10歳下の僕らが読んでいたんです。いわゆる団塊の世代が、そのころ小学生低学年ぐらいでした。トキワ荘の人たちが描いた漫画を僕らが呼んで、僕らが中学校ぐらいになると「少年マガジン」や「少年サンデー」が週刊誌になって、大学生になってもそのまま読んで、就職するときには「ビッグコミック」という成年誌が出てくる。団塊の世代には、読み手として日本の漫画をひっぱるという役割があったんです。

JK:私も「火の鳥」が映画化されたときに衣装をやったんです。手塚治虫さんにお会いしました。

弘兼:僕もこの仕事をやってて、手塚先生と話をしたのは2回ぐらいです。ちょっと畏れ多くて近づけない雲の上の人。

JK:記者会見の場で、私の名刺をお渡ししたんだけど、間に人が入っちゃって手塚さんの名刺をいただけなかったんです。ちょっと後になって、手塚さんが名刺をくださったんですが、その時の言い方が「私、実はこういうものです」って。ご自分の記者会見でですよ!その言い方がとてもおかしくて、かわいい方でした。

弘兼:あの人は新人の漫画家に対してもライバル心を持つんです。あんな大御所がですよ!僕が漫画賞を取ったとき手塚先生は審査員だったんですが、「まだこいつには負けないな」と、感想を言われるんです。当たり前ですよ!だから、横綱が幕内に入ってきたばかりのヤツを恐れる、みたいな感じなんですよね。いつかは敗れるだろうけど、まだまだ負けないぞ、みたいな。

出水:ある意味、平等にみてくださっているということですよね。

弘兼:そうなんですよね。すごくビックリしました。

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JK:絵が上手になったきっかけは何だったんですか? 何歳ぐらいのときから?

弘兼:子供の時。生まれつきというか・・・自分が絵が上手いと初めてわかったのは幼稚園に入ったときでしたね。他の人の絵を見て、みんなふざけて描いてるのかと思ったら、一生懸命だと知ってびっくりしました。なぜそうなったかというと、家の近くに映画の看板屋さんがあったんです。昔は看板って手描きだったんですよね。それが面白くて、毎日毎日そこへ行って。巨大な絵を描くわけですから、顔の線に緑とか赤とかへんな色をいれるんですよ。なんで顔を緑に塗るんだろう? と思って後ろに下がって見ると、それがちょうど影になって見えるという。これはいいなと思って。

出水:でも、それだけ絵に対する情熱があったのに、就職したのは大企業。

弘兼:子供のころはずっと漫画家になりたいと思ってたんですけど、漫画家って医者や弁護士のように、資格をとれば確実になれる職業じゃない。その現実がわかったのが中学校ぐらいで、そうか、漫画家は無理だな、とあきらめちゃったんですね。それで新聞記者になろうと思って先生に相談したら「早稲田に行け」って言われたんです。早稲田に行ったら漫画研究会というのがあって、その時も漫画家になるとは思わない。漫画の原稿取りのバイトとかもやりましたが、応接間で3-4時間、場合によっては12時間待つんですけれど、漫画家先生がフラフラになって出てきて渡すんです。これは大変な仕事だぞ! と思って(笑)じゃあ、漫画の力を活かす仕事はないかなと思って企業の宣伝部に入ったんです。当時、松下電器・サントリー・資生堂が宣伝の御三家と言われていたんですが、最初に受けた松下電器に採用されたので、そこで宣伝部で仕事していました。でも周りに漫画家志望のデザイナーさんがいっぱいいたので、逆に触発されて、俺はこんなところにいるべきじゃないな、やっぱり漫画家になりたいなと思って、仕事を辞めました。

JK:人生でMASACA!と思った経験は?

弘兼:紫綬褒章をもらった時。まさか自分に勲章がでるとは思わなかったですね!あれはビックリしました。

出水:漫画を描くうえで、弘兼さんが大事にしていることはなんですか?

弘兼:漫画家として大事にしていることは締め切りを守ること(笑)締め切りを過ぎると、いつかは干されますよね。新人のころからそんなことやってたら、僕が編集者なら、いつもギリギリのヤツよりは、他の人間を選びます。

JK:もともと新聞記者になりたいと思っていたから、そういう基本がわかってらっしゃるんですね。

弘兼:サラリーマン生活をでは、納期とか締め切りとか厳しいのでね。

出水:1回も遅れたことがない??

弘兼:原稿を落としたことはないです。つまり、締め切りに間に合わなくて掲載されなかったことはない。どうしても無理なとき、手を怪我して、申し訳ないけれど今回は描けない、ということがありましたが、早めに言っておけば、新人さんの漫画を差し替えるということができるんですけど、それも2回ぐらいかな?

JK:やっぱり手で描かなきゃいけないからね。今でも手でしょ?

弘兼:パソコンでもやれますよ。でも、パソコンでも基本は手で描きますからね。僕はパソコンだと目がちかちかしますから、基本的にはつけペンで描いています。

JK:背景とかそういうのはアシスタントが描くんでしょ? 実際に行ったり見たり、写真撮ったり・・・具体的でないと、情報だけじゃできないですよね。

弘兼:できないですね。ミャンマーの漫画を描くときはミャンマーに行かなきゃいけない。雑誌に載ってる写真を使うと著作権がありますからアウト。だから膨大な写真を自分で撮ってこなきゃダメなんです。

JK:じゃあ写真家にもなれるわね。今度は島耕作の定年後、「島耕作カメラマン編」を出してください(笑)

=OA楽曲=
M1.  Mother Popcorn / James Brown