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【映画評書き起こし】宇多丸、『パターソン』を語る!(2017.9.2放送)

ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル

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実際の放送音声はこちらから↓

宇多丸:
ここから11時までは、劇場で公開されている最新映画を映画ウォッチ超人こと<シネマンディアス宇多丸>が毎週自腹でウキウキウォッチング。その<監視結果>を報告するという映画評論コーナーです。……A-Ha? ねえ。見た人はわかるということで。今夜扱う映画は先週、「ムービーガチャマシン」(ガチャガチャ)を回して決まったこの映画……『パターソン』

(曲が流れる)

『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『コーヒー&シガレッツ』などなど、多くの作品で知られる名匠ジム・ジャームッシュ監督の最新長編作。ニュージャージー・パターソン市で暮らすバス運転手の男、パターソン。妻と愛犬と暮らし、趣味で詩を書く男の1週間が穏やかに描かれていく。主演は『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』『沈黙-サイレンス-』のアダム・ドライバー。またジム・ジャームッシュ作品『ミステリー・トレイン』にも出演した永瀬正敏も登場。その永瀬さんが登場した場面の、「アー、ハン?(A-Ha?)」っていう(決めゼリフを先ほど真似してみたわけですが)……ちなみに永瀬さんが英語で話しかける時に、「ニュージャージー州パターソン、ニュージャージー州パターソン」って、毎回しつこく言うのが、あれがおかしかったりしますよね。

ということで、この『パターソン』をもう見たよというリスナーのみなさん、<ウォッチメン>のからの監視報告(感想)を、メールなどでいただいております。メールの量はですね、普通よりちょい少なめ。あんまり大きく公開はしていませんからね。しかし、先週の『HiGH&LOW THE MOVIE 2 / END OF SKY』の投稿よりは多いということです。どうなっているんスか、琥珀さんっ! A-Ha?ってね、もう世界観がめちゃくちゃ(笑)。その感想の賛否の比率は9割以上が「褒め」。否定的なご意見はごくわずかでございました。「日常が淡々と繰り返されるだけなのに、なぜか面白い」「ジャームッシュ監督作品の中でももっとも愛おしい1本となった」「映画自体が一編の詩」などの賞賛が並びました。

代表的なところをご紹介いたしましょう。ラジオネーム「なすび」さん。「個人的にとても大切な作品になりました。最近、しんどい日々が続いていたのですが、何気ない日常を愛おしむ気持ちを思い出させてくれたセラピーのような一本になりました。満席の客席からは思い思いのシーンで優しい笑いが起きてきて、映画館の思い出としても、とても楽しく素敵な時間でした」ということでございます。あと、こちらもお褒めの方。「山田」さん。「一見、退屈そうな主人公パターソンの習慣や嗜好性はよく見るとオリジナリティーにあふれていました。劇中で思索をする人物だけあって、言葉の端々から『想像力がある人』という印象を受けます。『ありがとう』や『大丈夫』など相手を気遣う言葉をかならず使い、思索に夢中になっていても妻が帰ってきたら自室のドアを開けたり。見知らぬ少女が街で家族を待っていて1人でいるところを、危険な目にあわないように一緒に待ってあげたり。そこで『一緒に待っていい?』と許可を得るところがまたよかった。よく耳と目を働かせて、頭と心で捉えて、きちんと口と手を動かすと人生は豊かになるのだと思わせてくれる作品でした」という。

一方、ダメだったという方。「双子の母」さん。30代主婦、ニュージャージー在住。この方はね……「ニュージャージーの、しかも結構よく行く街の映画だということで興味津々でした。自分的にはダメなタイプの映画でした。なんとなくのんびりした雰囲気は嫌いじゃないですが……ちょっとのんびりしすぎていてキツかった。何よりも、特に詩も教養にも興味がない私には、双子とか、ニュージャージートランジットのバスとか、街の雰囲気とか、普通に普段私が見ている景色すぎて、いまいち良さが伝わりませんでした」っていう(笑)。これはある意味、うらやましいんだけどね。「……でも、ネットで批評を探してみたら高評価も多かったので、アートセンスのある人にはきっと素晴らしい映画だと思うのでしょう」という。だから本当に実物のパターソンを知っているとね。これは限りなく、ジム・ジャームッシュの脳内パターソンでもありますので。このあたりではないでしょうかね。

ということで、みなさんメールありがとうございました。私もヒューマントラストシネマ渋谷で2回、見てまいりました。ちなみにこれね、今回前売特典についてくるこのマッチ箱が、劇中で出てくるオハイオ印マッチ箱を模した素晴らしい特典マッチ。これ、三角絞めさんもきっと手に入れているんじゃないかと思いますが。まあ、先週の『HiGH&LOW』のジャンクフードぶりとは本当に対称的な……普段、ジャンクフードやファストフードばっかり食べている人には、「味、しなくない?」っていうぐらい、本当に淡いんだけど、でも実はしっかりと出汁の効いた、文字通り味わい深い一品、ということでございます。なにせ、当コーナーでは初となるジム・ジャームッシュ作品、ということですね。

僕はとにかくジム・ジャームッシュ、モロに『ストレンジャー・ザン・パラダイス』。1984年の作品。日本では1986年に公開になりましたが。もうリアルタイム直撃世代なんですよね。17才。1986年4月に日本では公開されて。もう当時、本当に見た誰もが完全にやられてしまった。まずその、非常に表面的なスタイルの部分をあえて挙げておくならば……モノクロの画面で、トレードマーク的に随所で挿入される黒み、シーンとシーンの間でちょっと長めの黒みが入る。そして、ひたすらミニマムでオフビートな作りというね。ちなみにこの「オフビートな笑い」みたいな表現も、僕の感覚では、80年代の半ば、この『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を中心としたミニシアターブームの時から、すごく映画評の中でも使われるようなった気がするんですよね。「オフビートな、オフビートな」って。

なので、ジム・ジャームッシュ作品に「オフビート」っていう表現を使うのは、あまりにもそのまんますぎるっていうか、あまりにもモロすぎて、僕的には。ちょっと気恥ずかしさが交じるっていうのも、きっと僕だけじゃないと思うんですけど。ともあれ、17才で『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を見て、「こういう“面白い”映画の作り方っていうのがあるのか!」「こんなに脱力していても、ちゃんと面白くて、かっこよくできるんだ!」っていう風に、特に僕ら世代は新鮮な衝撃を受けました。僕ら世代にとってのヌーヴェル・ヴァーグ、っていうぐらいの衝撃があったと思います。

まあその夏ね、仲間内で学園祭に向けて8ミリ映画を作るのをやったんです。で、僕は賢明にもね(笑)、ミュージックビデオ的アプローチを取る、っていうのをやったんですけど、もうちょっと劇映画的アプローチを取った友達の作品は、完全に『ストレンジャー・ザン・パラダイス』風。間に黒みが入って。で、オフビートなっていうか……単につまらないやり取りがされるというね(笑)。まあ、そんなのをつくったぐらい影響を受けてしまいました。とにかくその『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のヒットを受けて、その前のデビュー作、これは80年の作品ですけども『パーマネント・バケーション』と、そしてその次の1986年の作品『ダウン・バイ・ロー』。それが86年の1年のうちに一気に日本で公開されたという。まあ、要は86年は完全にジム・ジャームッシュ・ブームが起きていたということですね。


で、その後もおよそ、概ね4年に一本ぐらいのペースで、気がつくとコンスタントに新作が公開されているという感じなので。個人的には本当に、リアルタイム並走感がすごいです、やっぱりジム・ジャームッシュ作品は。要するに、作品のタイトルを見るたびに、「ああ、この頃はオレこうだったな」みたいな感じで、その時その時の自分史とセットで記憶が喚起される感じが強いです、ジム・ジャームッシュ作品に関して言えば。たとえばその、特に『ミステリー・トレイン』とかは、いろいろとその時の自分史と重なって、もうちょっと簡単に見返せない、ぐらいでございます。

で、その4年に1度タイミングでちょうど今回、ガチャが当たって『パターソン』、今回の2016年の作品に当たったということですね。しかもまさに今日から、やはりジム・ジャームッシュ脚本・監督の2016年の作品。イギー・ポップがいるバンド、ザ・ストゥージズのドキュメンタリー『ギミー・デンジャー』が日本で今日から公開されるという……僕はこれ、見れてなくて本当に申し訳ないんですが。もちろんイギー・ポップ、ジム・ジャームッシュ・ユニバースの中では、『コーヒー&シガレッツ』でトム・ウェイツと非常に気まずいやり取りをする(笑)のが印象的ですし。今回の『パターソン』にも一瞬イギー・ポップ、出てきますよね。ということでございます。ということで、久しぶりにまたジム・ジャームッシュ、ちょっと盛り上がっている、というような感じがあるこの時期でございます。

それに相応しくと言うべきか、今回取り上げる『パターソン』はですね、すでにあちこちでも言われていることなんですけども、ジム・ジャームッシュのいろいろなフィルモグラフィーがある中でも、原点回帰的というか、集大成的というか、とにかく、いろんな意味で非常に「らしさ」が詰まった一作となっていると思います。それはもちろん、いちばん表面的な意味で言えば、非常に題材が日常的なところに戻ってきた。たとえば1999年の『ゴースト・ドッグ』とか、2009年の作品『リミッツ・オブ・コントロール』みたいに、殺し屋が出てくるような話とかね。あと、前作の『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』のようにヴァンパイア物であるとか。あるいは、やっぱり相当な変化球ではあるけど、西部劇だった『デッドマン』とか…などのように、特に90年代以降多くなった、要はジャンル映画的な枠組みを借りてジャームッシュ色に染め上げる、というような試みに比べて。




あるいは、比較的ハリウッド映画に近いようなストレートな語り口、ビル・マーレイ主演の『ブロークン・フラワーズ』とか。そういうのに比べると、設定や物語が日常寄りで、ミニマムなつくりであるという、その点においてやっぱり、ジム・ジャームッシュ初期作に近い。比較的近作の中では、やっぱり2003年の『コーヒー&シガレッツ』以来の、原点回帰的な一本と言えると思いますよね。ただ、いまちょっと「表面的には」と言いましたけども、それを言ったらジム・ジャームッシュの作品群はどれも……後ほど言うことにも通じるんですけど、どれもお互いに呼応しあって、作品を超えて、時代を超えて、映画の細部同士が響き合っている。

つまり、結局はどの作品も常に原点回帰的だったり、集大成的な側面を持っている。どれも、「ああ、これはジム・ジャームッシュの、この要素とこの要素が集まってるから、今回は集大成的」って、毎回その要素があるっていうのは、ジム・ジャームッシュの映画を続けて見ているようなファンであれば、まあわかると思うんですよね。全部、等価でつながっているとも言える。まあ、過去作同士のその対応をいちいち挙げていると、本当にいくら時間があっても足りないんで。たとえば今回の『パターソン』に限って言っても、いちばんわかりやすいところで言うと、終盤に出てくる永瀬正敏さん演じる日本人旅行者は、言うまでもなく1989年の作品『ミステリー・トレイン』のキャスティングとか役柄を踏まえた再登板であり、なおかつそれは前々作にあたる『リミッツ・オブ・コントロール』の工藤夕貴登場とも響き合っている、とかですね。

まあ、イギー・ポップがジャームッシュ作品に横断的に登場しているというのは先ほど言った通りですし。あるいは、最もジャンル映画的と言っていい『ゴースト・ドッグ』。めちゃめちゃ人が殺されたり、マフィアが出てきてガンガン、本当にアクション映画的に人を殺していく場面があったりする『ゴースト・ドッグ』でさえ、たとえば、『葉隠』という、日本の武士道のことを書いた本がありますよね。あれの文章を朗読する……要するに詩的な文章の朗読と、その朗読した文章を字幕で出す、っていうのが『ゴースト・ドッグ』でもありますし。あるいは、チェスっていうそういう小道具の使い方であるとか。

あるいは、もちろんウータン・クラン要素ですよね。『ゴースト・ドッグ』はRZAが音楽をやっていて、途中でちょっと出てきたりもしますし。そのウータン・クランつながりで言うと、『コーヒー&シガレッツ』で今度はRZAとGZAが出てきて。「ボビー・デジタルが……」「リキッド・スウォードが……」なんてヒップホップファンがウキャウキャ言うような話をしていたりとかですね(笑)。今回の『パターソン』では、言わずと知れたメソッドマンですよ! ウータン・クランからメソッドマン(メス)が登場。


しかも、このメスが、コインランドリーのところでラップを少しずつ作っているんですけど、そこでポロッと言う言葉が、本作のインスピレーション元であるウィリアム・カーロス・ウィリアムズというアメリカの詩人。僕は今回まで全く不勉強で知りませんでしたけども、その人が書いた長編詩『パターソン』。要するにパターソンという街全体を擬人化して、いろんな要素を……たとえば散文的だったりとか、いろんな引用があったりとか、いろんな要素で全体でひとつの詩をなすという『パターソン』という詩からの、引用セリフ。「事物を離れて観念はない」っていう、非常に重要な引用を含むラップをしている。で、そのラップ自体は完全に、まさにメソッドマン!っていう感じの、超かっこいいフロウのリリック、その創作プロセスを見せてくれる。しかも、動き。本当にメソッドマンそのままの、あのかっこいい動きと、あのファッションを込みで見せてくれるというね。

とにかく、そんな感じでいちばんジャンル映画的な、『パターソン』からいちばん遠いところにあるように見える『ゴースト・ドッグ』でさえ、やっぱり『パターソン』とよく似た映画、という言い方もできるということですよね。あとはですね、たとえば前作の『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』でわりとはっきりとした形で表明された、人類の文化的アーカイブへのリスペクトの姿勢であるとか。あるいは、映画館で映画を見るというくだりがかならず入ってくるとか、料理を真上から……テーブルに乗せられた皿とかコップを上から撮る、あのショットの感じであるとか。

とにかくいちいち挙げていくとキリがないんですが、とにかくこの『パターソン』を含めて、ジム・ジャームッシュ作品というのは、たとえ映画としてのつくりや、トーンとか物語のリアリティーラインは大きく違っても、本質の部分で常に響き合って、呼応しあっていて、というあたり。言ってみれば、同じジム・ジャームッシュ・ユニバースの中にある、というような感じ。これも後ほど言うこととも通じますが、要は毎回同じ……毎回原点回帰的、集大成的とも言えるし、毎回違うとも言えるという、こういう作品群なわけです。

ただ、その上でなお、やっぱり今回の『パターソン』は特にジム・ジャームッシュの集大成的な一作である、という風に、やっぱりそれでも僕は思います。それはどういうことかっていうとですね、いま言ってきたようなジム・ジャームッシュのフィルモグラフィー。まあ、「ジム・ジャームッシュ・ユニバース」と言ってもいいでしょうけどね、その本質が、今回の『パターソン』というこの映画では、非常にわかりやすく「構造化」されているというか。いわば、ついにジム・ジャームッシュの作品の構造が「明文化された」みたいなところがあるから、ちょっと集大成的な感じになっているな、という風に思うわけです。

たとえばですね……あんまりこれジム・ジャームッシュ映画にこういう、僕がやるような「整理」っていうのは似合わないんだけど、一応ざっくりと改めて考察をしてくと…、まず淡々とした繰り返し。ループ感。しかもそれらは、繰り返しに見えるけど、実は同じじゃない、というような部分。まあ、ジム・ジャームッシュの作品はいつもちょっとオムニバス的な構成をとっていたりするんですけど、それも含めてループ感があるんだけど、でも「同じに見えて、実は同じじゃない」という。

それが、他の作品もその構造があるんだけど、今回の『パターソン』はそれがまさに、主人公パターソンの、一見単調なルーティンの繰り返しに見える1週間の生活。しかしその中に、実は豊かに立ち上がってくる様々な変化、という形で、とてもわかりやすく提示されていますよね。そもそもが1週間、今日は月曜日です、火曜日です……って繰り返しで、わかりやすく提示されている。なんだけど、同じに見えて、同じじゃない。たとえば、起きる時間が微妙に、6時10分だったり6時15分だったり6時30分だったり、微妙に違うとか。寝ている格好が微妙に違う。「あ、昨日セックスしたな、この夫婦」とか(笑)。それがあったりとかですね。だからこそ、土曜日。普段は、この1週間ずっと上から2人が寝ているところをとらえ続けてきたカメラが、違う形でその朝をとらえる時、「うわっ!」ってなるとかですね。

あるいは、自宅インテリアも、月曜からだいぶ様変わりしていきますよ。少しずつ様変わりしていったりとか。あるいは、毎日その主人公のパターソンが通っていく通勤ルート。その切り取り方。画角の撮り方が少し違う。これ、面白いのは、毎日のルーティンの繰り返しっていうのを撮るんだったら、同じ画角の繰り返しでその中の変化っていう、そういう見せ方もあるんだけど、(この作品では)わりと全く違うアングルでその通り道をとらえて見せたりとかですね。そしてもちろん、その背景で、ささやかながら、少しずつ緊張感を増していく主人公の周りの人間関係、みたいなことで。非常にわかりやすく提示されている。あまつさえ終盤ですね、ある登場人物によって、その「繰り返しだけど繰り返しじゃないんだ、毎日新しい日がやってくるんだ」っていうテーマが、割とはっきり、テーマそのものが口に出される……って、結構ジム・ジャームッシュの映画では珍しい事態が起こるぐらいなんですね。

でですね、この「繰り返し、だけど、同じじゃない」っていう、映画自体がそういう構造を持っているわけだけど、これはまさに、詩というものの構造、それこそ「韻」とかそういうものの構造と同じでもある、ということなんですよね。ジム・ジャームッシュ自身が今回の映画を評して、「詩のフォームをとった映画だ」って言っているけど、まさにその部分だと思う。要するにね、非常に散文的な、一見大筋とは無関係に見える断片的なエピソードが、非常に無造作に並べられているように見えるんだけど、絶妙なところで韻が踏まれていたり。つまり「作品的設計」って言うか、「あ、ちゃんと考えて並べてたんじゃん」っていうことが、不意に我々の前に立ち上がってきて、我々も「ああ、気持ちいいな」って感じたりとかですね。

あと、全体で見るとしっかり、伏線やテーマの暗示といった機能を果たしていたりする、というこのつくり。まさに元となった、さっき言ったウィリアム・カーロス・ウィリアムズの『パターソン』という長編詩の構造そのものとも言えるし。たとえばこの映画『パターソン』において、その日々のルーティン、微妙に変化していく繰り返し。非常にわかりやすい韻……まあ、月曜も同じルートで、こういう順番で、火曜もこれでって、要するに韻ですよね。韻っていうのは、似た響きのものが並んでいく。しかも、等間隔で並んでいくから、まあラップなどでも言う韻、っていうところになるんだけど。それは、わかりやすい韻ね。

なんだけど、ここでたとえば、「双子」っていうのが出てくるのね。双子っていうキーワードから、主人公パターソンが、あちこちで双子を見る。その双子の登場の仕方は、一見法則性がないというか、油断したところにポンってまた双子が出てくるという。で、前の方に出てきた双子と響き合う、というあたり。さっきから言っている、細部と細部が響き合う、呼応し合う、というのがこの作品の内部でも呼応し合っているわけだけど、これはさしずめ、劇中でもこの言葉が出てきましたけども、「中間韻」ですね。詩で言う中間韻。つまりまさに、その韻というか詩の構造について話す場面。「あんまり韻とか踏んでないんだけど」ってある登場人物が言うその詩……しかもその詩は、ジム・ジャームッシュ作の詩なんですけど……でも、それに対して主人公のパターソンが、「いや、ちゃんと韻を踏んでいるところは非常にきれいに踏めていたし、なんなら中間韻も踏んでいたよ」って言うんだけど、これはこの映画全体の構造のことも指している、ということですね。

そしてなおかつ、ジム・ジャームッシュ作品全てのあり方を指している、とも言えるわけです。ジム・ジャームッシュ作品全体が、あんまり韻を踏んでいないように見えるけど、実はきれいに踏んでいて、中間韻も踏んでいる。そういう気持ちよさを持っている、ということですね。そしてですね、そうした「繰り返しだけど同じじゃない」「細部と細部がまた別の細部と響き合っていたり、あるいは一部が全体と呼応し合う」というような構造。まさにさっき言った『パターソン』という長編詩の構造でもあるし……なんならその全てが、パターソンという1人の男の脳内にある、パターソンという街の妄想にも思えるとか。まさに『脳内ニューヨーク』ならぬ、「脳内パターソン」と言うかですね。こんなような構造になっているんですけども。そういう要するに、繰り返しだけど同じじゃないし、細部と細部が別の細部とも響き合っているし、そして一部に見えた細部は全体とも呼応し合っているんだ、というような、このものの見方。

つまり、それ自体は何の意味もない、文字通り非情な、魂のない世界っていうのがドーンとそこにあるわけですけど、その世界と、我々人間的なるもの。それこそ、ロゴスで生きている人間なるもの、人間的な営みを、「つなげる」役目としての「詩」っていうことですね。世界と、ロゴスとしての人間の、間の存在、ブリッジとしての詩、っていうことですね。あるいは、詩的な、ポエティックなものの見方……それを通して、世界がちょっとだけ豊かに、楽しく見えますよ、っていうようなこと。まさに、永瀬正敏さんが登場するセリフの中で、これは字幕の訳だと「詩は好きなんですか?」って聞かれて「詩は私の全てです」っていう日本語訳になっているんだけど、これ、元でなんて言っているかっていうと、「私は詩を呼吸しています」って言っているんですね。こっちの方がやっぱりこのテーマに合っていると思うんですよ。詩を、呼吸するように、ポエティックな見方をすると。そして、そういう営みの蓄積としての、人類の文化。その一部として、我々の営みがある。その、人類の文化史っていうすごい大きなものとも、我々の日々の営みは呼応しているんだ、という。

たとえば、それこそメソッドマンが登場する場面のラップだって、その詩作という歴史の中の一部なんだという、そういう位置づけをしているわけです。なので、ここでメソッドマンのラップにだけ歌詞の訳がついていないのは、等価として扱っていない感じがして、ちょっとこれは訳がついていないのはどうなんだ?っていう風に思ってしまいましたけどね。(※宇多丸補足:この件、配給会社の方からご連絡いただきまして、当初はこの場面にも字幕をつける方向で進めていたものの、権利元のチェックの段階で、ジム・ジャームッシュ監督の意向により、最終的に字幕を外すことになった、という経緯があったそうです。ジャームッシュの意図がどこにあったのかはわかりませんが、ともあれ日本の配給サイドの判断ではなかったということ、この場を借りて付記しておきたいと思います)
まあ、とにかくそういう風に、ジム・ジャームッシュ作品は常に、こういう僕が言ってきたようなテーマが、実は通底しているんですけども。それを今回の『パターソン』では、かなりはっきりと、作品の構造的にも、セリフを含めたストーリー上でも、「表明」してみせた一作という意味で、やっぱり集大成だという感じがするわけです。『パターソン』は。

だからですね、全編に渡って展開されている主人公の詩的活動。彼が、ノートにも書き付けているんだけど、頭の中ででも詩を作り始める――この詩はロン・バジェットさんという現役の詩人の方が作った詩なんですけども――それを始めると、ジム・ジャームッシュ自身のバンドであるスクワールというバンドの音楽が鳴り始めて、そのアダム・ドライバーが読み上げた朗読と、アダム・ドライバーが書いた字の、字幕が出てくる。それも、考えている最中にちょっと詰まりながら書き足していくのと、もうすでに書いた部分にさらに書き足していく、その繰り返しでは、読み方のテンポが違ったりするという、この、本当に少しずつつくっているかのような生々しさ、というのが表現されていたりとか。

それがあって、終盤。いったんその営みが途絶えてしまう。ちょっとささやかなトラブルがあって、途絶えてしまう。音楽も朗読も字幕も、いつもと同じ場所を、パターソンを歩いているはずなのに、それが全てなくなってしまう。世界と彼をつなぐ何かがなくなってしまった感じ、がはっきりとするわけですね。だからとてつもなく重大な欠落に思えるし、再びその営みが始まった時のうれしさみたいなのもワーッと……再び、やっぱり「詩を呼吸する」、世界をちゃんと詩で呼吸することができている、っていう感じがしてくるという。

というような、僕がいま言ってきた、考察してきたような諸々を、詩の朗読以外内面を吐露するようなセリフや展開は一切ないまま、周囲の人物や出来事に対する、本当に微妙な、ささやかなリアクションのみで、ものすごく豊かに味わい深く表現してみせる俳優アダム・ドライバーが、なにしろ凄まじい。素晴らしいです。「ああ、本当にアダム・ドライバーって上手いんだ!」って思いましたね。たとえば、バスを運転しながら、客たちの会話にちょっと耳をそばだてているあたりの、本当に微妙な表情の変化。

たとえばね、男たちの「あの女、あれ行っていたら行けたぜ!」っていうしょうもない会話(笑)。しかも、そのしょうもない会話を、他の女性客がすごく冷ややかに見ているとか。それも含めて、それを聞いている彼がちょっと表情を変化させて、ちょっとニコッとしてたりするという、その表情の変化だけで、彼が実はものすごく世界を、黙っているけどすごくよく観察しているし、それらを楽しみ、愛でていて……っていう。とっても賢く優しく奥深い、好ましい人物である、ということが、本当に微妙な表情だけで伝わってくるという演技なんですよね。

あと、奥さんのたとえば自作したカーテンをさ、こうやって丸が書いてあるカーテンを、朝食を食べながらこうやってつまんで……なんとも言えない間があったりとか(笑)。あと、奥さんの料理を食べた後に、「うんうん、美味しい美味しい」って言いながらね、いつになく水をゴクゴクと飲みだすあのくだりとか(笑)、本当におかしいんですけどね。まさにこれこそ、ジム・ジャームッシュ的オフビートなギャグ感覚だと思いますが。あの、奥さんのローラを演じているゴルシフテ・ファラハニさんという方。これ、この間ね、アスガー・ファルハディというイランの監督の『セールスマン』という作品を7月22日に扱いましたけど、ファルハディの『彼女が消えた浜辺』という素晴らしい作品。これでわりと事件のきっかけを作る、ちょっと焚き付けちゃった人をやった方なんだけど。とにかくこのゴルシフテ・ファラハニさんが、美人できれいで楽しい奥さんなので。正直ね、この映画全体の、「何気ない日常も詩的な視点で楽しめれば豊かに見える」って……お前が幸せなのは、こんなに美人の奥さんが家で待っているからだろうが!っていう気がちょっとしてしまうのが玉にキズかもしれませんがね(笑)。

ただ彼女のクリエイティビティー、いろんなことを活発にやって楽しい人なんだけど、ちょっと常軌を逸したレベルに行きかけるというか。ちょっと不穏なレベルに入りかけるあたりが、やっぱりこの作品の味わい深いところですね。実際、その彼女がものすごいやる気になったことで、(回り回って結果的に)ある悲劇が起こるわけですからね。そんなのも味わい深い。あと、あのフラれた男、エヴェレットを演じているウィリアム・ジャクソン・ハーパーさん。もう顔一発でもうね……落ち込んでいる顔一発で、なんかおかしいあれとかね。もちろん、カンヌでパルム・ドッグ賞をとったあのマーヴィン。ブルドッグもすごく、顔一発で素晴らしいというのもあります。

これ、主人公のパターソンが使っている文房具等々についてね、あとノートについてとかいろいろと、文具者、文房具で勃起する男(笑)、構成作家の古川耕ともいろいろと話をしたいところなんですが、もうちょっと残り時間がございません。とにかく、劇場を出た後に、観客である我々自身も、詩を直接書くと言うんじゃなくても、なんか外に出た時に、詩的に世界を眺め直す、解釈し直してみる、ということをちょっとしてみたくなる作品。僕の場合は、僕はすでにラップで歌詞とかを自分で書いているから……でも、改めて世界をちゃんと見て、ちゃんと味わって、ちゃんと慈しもうかな、っていう気持ちになる作品でございました。

私自身が詩作というものを生業にしているということもあって、とっても……ジム・ジャームッシュのフィルモグラフィー史上でも、初期作はもちろんものすごく思い入れはあるんですけど、ひょっとしたら近年ではいちばん近く、身近に感じる、とってもかわいらしく、愛おしく、大切な一本となりました。味濃い映画もいいんですけど、たまにはこういうね。ファストフードばっかりではなく、マヨネーズぶっかけばかりではなく(笑)、こんなものもご覧になっていただければと思います。ぜひぜひ、劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画はポール・ヴァーホーヴェン監督の『エル ELLE』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

<以下、ガチャ回しパート 起こし>

失礼しました。先ほどの評の中でアスガー・ファルハディ監督作でゴルシフテ・ファラハニさんが出演されたのは『彼女が消えた浜辺』ですね。『砂浜』って言っちゃいましたけど。『彼女が消えた浜辺』でございます。こちらも素晴らしい作品なので。本当に美人なんだよね。ぜひぜひね、ご覧いただきたいと思います。

ということで、来週のウォッチ候補作品7作品を発表いたします……(以下省略)

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