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ゴールして、太鼓を叩くまでがマラソンです?!~林英哲さん

コシノジュンコ MASACA

2017年12月24日(日)放送

ゲスト:林 英哲さん(part 2)
1952年広島県生まれ。11年間のグループ活動後、1982年、太鼓独奏者として活動をスタート。1984年、太鼓ソリストとしてカーネギーホール・デビュー。2000年にはベルリンフィルと共演し、2万人を超える観客を前に圧倒的なパフォーマンスを披露しました。その後ロック、ジャズなどジャンルの異なる演奏者との共演、美術館をモチーフにしたコンサートをするなど、太鼓音楽の創作者として国内外で活躍していらっしゃいます。
 

出水:広島県生まれで、ご実家はお寺なんですね? 一番最初にふれあった楽器は?

英哲:楽器というのも変ですが、鐘とか木魚とか(笑)うちには太鼓はなかったんですが、神具・仏具の類を鳴らしていた。学校で最初にやったのは木琴、そして中学に入ってからスネアドラムやドラムセットをやるようになりました。そういう経過をたどるお寺の子供は多いんです(笑)お坊さんでドラム好きで、ドラムやってるっていう人は結構います。

JK:初めて聞いた! お寺で生まれるってくらーい世界だと思ってたら・・・

出水:いえいえ、とんでもない!

英哲:だって、家の中に鳴り物があんなにあるところないじゃないですか。

JK:鳴り物(笑)8人兄弟の末っ子でしょ? ものすごい人数ね。そこでオーケストラができたわね!

英哲:いや~、大変だったと思います。男女4人ずつ、上に兄が3人いて誰か1人は跡を継ぐし、僕は末っ子で、できると思ってないでできた子供だったので、「どこまで面倒見てやれるかわからないけれども、お前は好きなことをしなさい。ただ、親はあてにするな」と言われてましたね。

JK:本当に好きなことをやりましたね、お寺とは何にも関係ない世界。でも、もともとは美術でしょう?

英哲:そう、もともと美術が好きで、1人で絵を描いたり襖にいたずら書きをしたり・・・今日は静かだなと思って、親が襖を開けたらガーッと描いていた。お寺だから、筆も墨も硯もありましたからね(笑)

出水:水墨画デビューが早いですねぇー!

JK:襖絵画家(笑)それ、残ってたら面白いのにね。

英哲:写生大会の絵じゃんかうて、パッケージとかポスターとかグラフィックに興味があった。それで美大に行こうと思ってデッサンの勉強をしてたんですが、現役の時に東京で受験して落ちましてね。70年代ですから周りはヒッピーみたいな浪人生がいっぱいいて、学生服で田舎から出てきた僕は空気に圧倒されて、ダメでしたね。

JK:それで髪の毛伸ばした?(笑)

英哲:伸ばしました(笑)東京で浪人生活をしている間に、横尾忠則さんが出席するイベントが佐渡島であるというのをラジオで聞いて、会いに行ったんですけど、結局横尾さんはそのイベントに来なかったんです。

JK:あの人、いつもそう! とにかくひっくり返すの好き。

英哲:イベントの主催者がこれから太鼓グループを立ち上げるという人たちで、7年後に佐渡に職人学校を作るので、それまでお金を稼ぐために太鼓チームをやるという話だったんです。僕はあんまりやる気はなかったんですが、中学からドラムをやっていたんで、あいつは面白そうだと引っ張り込まれて。まぁ7年だからいいかなと。一生やるつもりではなかったんです。

英哲:まだ世の中に太鼓の芸能を専門にやるグループはなかったので、練習の方法がわからない。一応お囃子の先生には習ってたんですが、一番力を入れたのがマラソン。

出水:マラソン・・・ですか?

英哲:とにかく体力だ、と。日本の芸能は、海外に出た時に四畳半の芸者ごとのようにみられることが多いので、ああいう柔らかい芸能じゃない、本気でやっている姿を見せたい、というので体力。それは本当に大変でした。

出水:マラソンはどのぐらい走ったんですか?

英哲:朝4時に起きて20km、昼間に近くの400mトラックにいって、インターバルトレーニングというのを全力疾走20本。夕方、また砂浜走とかクロスカントリーとかを15~20kmやるわけです。多い日は40~50kmぐらい走りました。

JK:うぇぇ~!

出水:それはつまり、走る・プラス・叩くこともするんですか?!

英哲:その合間に練習と、長い長いお説教を聞かされる(笑)「戦後の民主主義がお前らみたいな軟弱なものを育てた」とかね。とにかく全否定されるんです。

JK:で、7年たって終わりになった・・・

英哲:終わらなかったから、問題になったんです。主催者がいい加減で、僕は結局11年がんばったんですが、大学も行けないし。一種の収容生活ですから、TVも新聞も見ちゃいけない、自由行動もお金も給料もない。

JK:よく逃げ出さなかったわね! 親は心配したでしょ?

英哲:みんなだいぶ逃げましたし(笑)親も心配しました。でも、心配が封じ込まれたのは海外で成功したから。ストイシズムで本気の演奏を毎回繰り返していたので。ブロードウェイでの長期公演もやりましたから。

JK:最初の海外はどこ?

英哲:最初はアメリカ。ボストンマラソンに出場して、全員で走って、ゴールしたら太鼓を打つという。

出水:ええーーーー(;゚Д゚) 走った後?!

JK:両方できるからいいですね(笑)

英哲:だからアメリカでは「マラソンドラマー」というので、ものすごく評価された。僕はボストンマラソン5回出ました。

JK:今でもやったほうがいいと思う! 東京マラソンとか、そういうのでぜひ。

英哲:(;^ω^)

JK:英哲さん、いっぱいMASACAがあるでしょうけれど(笑)最大のMASACAは?

英哲:まさか、太鼓打ちで人生やるとは思わなかったです。

JK:日本の有名な画家の横尾さんを超える目的だったのに(笑)横尾さんに裏切られてよかったわね。

英哲:横尾さんにポスターとかジャケットをお願いしたときに、「でも英哲君は、美術めざさないでよかったよね~、美術めざしてたら名前が出たかどうかわかんない」って言われました(笑)横尾さんにそれを言われちゃったら・・・僕が美術少年だったあのころ、60年代末~70年代ぐらい、横尾忠則さんっていえば、キラ星のような存在だった。グラフィックデザインでは横尾さんはスターでしたよね。だから、美術少年はみんな横尾忠則になりたかったんです!

出水:でも、その横尾さんに会いに行ったイベントに、横尾さんはいらっしゃらなくて・・・

英哲:太鼓の世界に引っ張り込まれて、やっているうちに、いろんな先生に褒められるようになって。メンバーが10人ぐらいいるんですけれど、「この子だけはスジがいい」って言われて。

JK:褒められるとその気になりますよね。

英哲:絵は好きで、今でも描くことは描くんですけど、バチよりも軽いものを持つと体がパキパキになっちゃう(笑)体がもう太鼓を打つ仕様になっているので、細いものをもって一晩絵を描いてると、次の日何もできないぐらいガッチガチになるんですよ。これは肉体的に絵を描くのは無理だなと。

JK:でも、お箸は持てるんですね?

英哲:お箸はもてます(笑)それくらい、太鼓モードの体になっちゃいましたね。だから引退したら描こうかな。老後の楽しみで。

出水:今後、目指している完成形はどういう形ですか?

英哲:舞台作品としては、いいものをたくさん残していきたい。今は僕が芯になってパフォーマンスをやってますけれど、自分がいなくても独立した作品として伝えていきたいので、作品を作りたいというのは常にあります。それから海外にも弟子がいて、習いたくて日本まで来るんですよ。筑波大学の大学院とか東京芸大に海外留学生が来て、僕の授業を受けた後に触発されて「もうちょっとやりたい」と言ってくる。一番最近ではアルゼンチン人が、「これからブエノスアイレスに帰って、日本文化センターを作って、太鼓をやります!英哲先生もぜひ来てください」って、海外で熱心に太鼓をやる人が増えている。そういう人たちの受け入れ態勢と指導体制を作っていかないと。結局、いま日本人で太鼓を打っている人たちも見よう見真似でしかやってないんで、きちんとしたことはわかってない。

JK:これからは、そういうひとつのルールを作ったほうがいいと思います?

英哲:まぁいい場合もあるし、美術と同じで、あんまりルールを作っちゃうと、新しいものが出てこないし。そこらへんが難しいところです。

出水:太鼓の音は日本人が昔を思い出すものだと思っていたんですが、海外の方にも深いところで響くというのはびっくりしました。

英哲:普遍的ですよ。肌の色が違っても、宗教が違っても・・・中東の人だって泣いて喜ぶんですから。初めて聞いた人でも号泣。

出水:なんなんでしょうね、そういう訴える力というのは?

英哲:僕はあちこちで言っているんですが、おなかの中にいるときに赤ちゃんが聞いている音に近いんですって。太鼓の周波数が。

JK:鼓動ってことですかね? たしかに、おなかに響いてくる感じがするものね。

英哲:お母さんの心臓の音を、皮膚で感じる。それも低い音だけじゃなくて、低周波から高周波まで全部含んだ音を聞いているんですって。それが体を振動させると、体内回帰というか・・・だから、伝統芸能のようで伝統芸能でない、非常に日本的なのに、世界に通じている。本当にびっくりするくらい、みんな泣きますよ。

=OA楽曲=

M1. 鼓動 / 林英哲

M2. ボレロ:抜粋 / 林英哲