お使いのOS・ブラウザでは、本サイトを適切に閲覧できない可能性があります。最新のブラウザをご利用ください。

放送中

放送中


  • お知らせ
  • 放送ログ
  • 音声あり

宇多丸、『プーと大人になった僕』を語る!【映画評書き起こし 2018.10.19放送】

アフター6ジャンクション

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸が前の週にランダムに決まった最新映画を自腹で映画館にて鑑賞し、その感想を約20分間に渡って語り下ろすという週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜はこの作品、『プーと大人になった僕』

名作児童文学を元にしたディズニーの人気キャラクター、くまのプーさんを実写映画化。大人になり仕事に追われる日々を送るクリストファー・ロビンが幼少期の親友プーとロンドンで再会したことから、忘れていた大切なものを思い出していく姿を描く。大人になったクリストファー・ロビンをユアン・マクレガーが演じる。監督は『チョコレート』や『ワールド・ウォーZ』などなどのマーク・フォースター、ということでございます。

ということで、こちら『プーと大人になった僕』をもう見たというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>のからの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は「やや多め」。ああ、そうですか。公開規模も大きいというか、普通にヒットもしましたしね。賛否の比率は、褒める意見が7割、否体的な意見が3割。主な褒める意見としては、「子供向けとナーメテーターだったが思わず泣いてしまった」。今回、どっちかって言うと大人向け要素が多めですからね。「今年どころか人生ベスト級。大人にも夢や物語は必要なのだと思わせてくれる、大人こそ見るべき1本」ということでございます。

否定的な意見としては「作品を通して伝えたいメッセージは分かるが、それらがあまりにも現実味がなく、まったく響かなかった」「がんばって仕事しているのに、それがいけないことと言われているようで不快になった」「プーさんたちがクリストファー・ロビン以外の人間の前で動いた瞬間から乗れなくなった」というような意見がございました。というところで、代表的なところをご紹介いたしましょう。

 

■「『夢を与えるビジネス』をするディズニーの本気!」(byリスナー)

 

「ミヤコ」さん。いろいろと結構長めのメール、黒めのメールをいただいておりまして、ありがとうございます。ちょっと端折らせてもらいますね。「誰しも成長過程で辛いこと、理不尽なことに出会い、心を閉ざしたり歪めたり、過剰に現実に適応しようとしたりして、子供の頃、大事だったものを忘れていきます。この映画を見ていて突然思い出したのですが、子供の頃私は大好きな『くまのプーさん』を録画したビデオをある時、『もうこれは見ない!』と決めて、自分でビデオテープを上書きして消してしまったのでした」。すごいね! リアル・クリストファー・ロビン(笑)。

「……何が原因だったのか覚えてないのですが、ふと自分で『もう子供向けのお話は卒業しよう』と決めたのかもしれません。あるいはその時はもっと好きな映画ができて、そちらを保存しておきたくなったのかもしれません。とにかくその記憶が、クリストファー・ロビンが想い出を閉じこめて捨て去ろうとしていたことに重なって、胸が締め付けられるようでした。それから高校生の時に自分の親が重い病気をして大手術をした時、親戚のおばさんからこの映画に出てくるのとそっくりなことを言われたことも思い出しました。その時は言われたことを受け止めたつもりでいたけど、こうした映画の内容と重ねてみると無性に泣けてきてしまうのは、やはりどこかでその言葉にずっとしばられていたのかもしれません」。

どの部分のことかな? 「大人になりなさい」みたいなことかな? ああ、あそこだ。「これからはあなたが家族を支えるのよ」っていうやつか。「……とはいえ幸い、現代は何歳になってもいろんな娯楽を楽しめる時代です。大人になってから『やっぱりまた『くまのプーさん』を見たいな』と思い、DVDを買っていまも時々見ています。それに自分が大人になる過程で一度は子供向けの映画を否定したり、身に余る責任を負って無理をするということもそれはそれで必要なことだったのだと思います。子供に夢を見せるだけでなく、大人になって夢がそのまま現実にならないことがわかっても、その人たちに向けた映画をちゃんと作っている。そのあたり夢を与えることをビジネスにしてるディズニーの本気だと感じています」というね、自分自身を重ねたメール。ありがとうございます。

あとはダメだったという方。「水陸両用車型レイ・リオッタ」さん。強いだろうね、この方ね(笑)。「『プーと大人になった僕』、僕にはイマイチでした。本作公開のアナウンスとともに発表された宣材写真のプーさんのあまりの古ぼけたぬいぐるみっぷりを見た時は『すごい! 歳を取らないイマジナリー・フレンドにこうやって寿命を与えるのか!』と思い、漂う別れの予感に早くも涙ぐんでしまったほど期待してたのですが、実際の作品はそういった切なさからは程遠く、特に後半の書類を届ける展開などには大人の社会をこの程度のリアリティで描くなら、普通に少年のクリストファー・ロビンがお父さんの忘れ物を届けに行くキッズムービーを80分かけてやればよかったのでは? それなら100エーカーの森の仲間の動物メンバーたちが人の言葉を話していまだにピンピンしてることにもモヤモヤしないで済んだし……」という風にあって。「……正直、期待値からの下げ幅としては、今年ワースト級の1本です」というご意見をいただきました。

 

■『プー』の本質を捉えた過去作2作

さあ、ということでみなさん、メールありがとうございました。『プーと大人になった僕』、私もTOHOシネマズ渋谷、そしてバルト9で、今回はちょっとね、吹き替え版をチェックする時間がなくて。この番組を始めてそれがちょっと辛い……字幕版で2回、見てまいりました。といことで、『くまのプーさん』の後日談というか、すっかり大人になったクリストファー・ロビンとプーさんたちが再会するという、これ言ってみれば、ちょうどあの藤子・F・不二雄さんの短編で、『劇画・オバQ』ってみなさん、読んだことありますかね? 『藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編』に入っていると思いますけどね。藤子・F・不二雄さんの『劇画・オバQ』みたいな発想の話ですね。

※『劇画・オバQ』収録

で、この作品についてこれからいろいろ言いますけど、その前提として、そもそも『くまのプーさん』とはどんな作品だったのか? その魅力の本質は何か? という点が今日、僕の話すことに深く関わってくるので。まずはその根本部分を改めて、軽く確認させていただきたいと思います。そもそもディズニーのキャラクターである以前に、イギリスの作家A・A・ミルン(アラン・アレクサンダー・ミルン)が自分の息子クリストファー・ロビン・ミルンさん……実在するわけですね。クリストファー・ロビン・ミルンのために、彼が実際に持っていたぬいぐるみたちを元に、そしてそのぬいぐるみたちで遊ぶ様子を元に書いた童話、というのがあるわけですね。

そこにA・A・ミルンさんの友人、E・H・シェパードさん(アーネスト・ハワード・シェパード)が描いた挿絵の愛らしさが加わったりとか、あとさらには、ご存知の通り1960年代にディズニーによってアニメーション化。それよって、さらなるポップアイコン化が進んだ、みたいなことがあって、現在に至るまで世界中で愛され続けるキャラクターとなった、というのは言うまでもなくね、みなさんご存知の通りでございます。なんですが、いろいろと作品はあるんですけど、特に重要というか、プーさん世界の本質的魅力を正確に捉えているなと僕が考えているのは、やはりですね、この2本ですね。ディズニーの最初に作られた短編3本と、その3本をつなぎあわせて、その間につなぎのシーンと、あと実写のオープニングとエンディング――この実写のオープニングとエンディングが大事なんですけど――それを足した、1977年の最初の長編『くまのプーさん』というのがある。

それと、その1977年版の構造とかスタンスに非常に忠実に、なんならさらにそれを過激に進化させた形で作った、2011年版……結果として、ディズニーの2Dアニメーション部門にとどめを刺すことにもなってしまった、(2011年版)『くまのプーさん』。これは土曜日にやっていた『ウィークエンド・シャッフル』時代、2011年9月17日に僕は評しました。ちょっとそこで評したプーさん論みたいなのが、今日もちょっと重複するところがあると思いますけどね、あしからず。ということで、この二作、共通してるのは、どちらもまず、最初にクリストファー・ロビンの部屋と、そこに置いてあるぬいぐるみを、実写で映し出すわけです。だから今回の映画が、「初の実写化」って言われると僕はね、「いや、実写化はすでにしています!」って言いたいんですけどね。

 

■プーさんは「実在の少年の、実在のぬいぐるみを元にした、実在の本がベース」

で、まあ実写で映し出す。そこからアニメの世界に入っていくわけですけど、特にこの2011年版の方は、あまつさえ、そのエンドロールで、劇中であったいろんな場面が、実はクリストファー・ロビンがぬいぐるみで1人遊びをしていた、その言ってみれば脳内イメージ的なものだったんだ、っていうことを示していて。そういうエンドロールで終わるわけです。要は、あくまでも「実在の少年が、実在のぬいぐるみで遊んでいた、そこが元になった話ですよ」っていうその根本を、改めて認識させる作りになっている。これがその、ディズニーのこれまでのアニメーション2本だったわけですね。

そこに加えて、たとえばタイポグラフィ的な、活字を使ったギャグが多用されたりとか。要は「原作は“本”ですよ。字で書かれた“本”なんですよ」っていうことを強調したような、そのメタ的な描写が要所に出てきたりとかして。つまり「実在の少年の、実在のぬいぐるみを元にした、実在の本がベース」ということ。その構造こそがこのプーさんのキモなんだ、っていうことを、この1977年版、2011年版、その2本の長編作品は、明らかに意識的にして作ったと言えると思います。

 

■回想の二重構造を通じて愛おしむ「幼年期の終わり」

では、その構造によって浮かび上がる、プーさん世界特有の魅力、キモ、その本質とは何かというと……つまるところ、こういうことだと思うんですけどね。「幼年期を脱した少年期から振り返って、その自分の幼年期を、懐かしく、かわいく思う感覚」。皆さん、これ思い出せますかね? 全然少年期で幼いんだけど、それよりさらに前の、赤ちゃん期に近いような時期を、自分で振り返って懐かしくかわいく思うような感覚。そして、そう思っているその少年期の感覚や感傷を、さらに俯瞰した目で見るメタ視点、ということ。この二重、三重に「かわいい、懐かしい」という感情が発動しやすい構造があるからこそ、世代を超えて文字通り「童心に帰れる」という舞台になっている。

そして、その1977年版のラストにもあるくだり。要は学校に行く年齢になったクリストファー・ロビンが、もう無心で遊んでいればよかった季節に別れを告げつつ……でもプーには、「君だけはいつまでも変わらず、ここで“何もしない”ことをしていてほしい」と言うように、その、世代を超えて「幼年期の終わり」というのに対して切ないお別れを告げるような、その切なさを感じることができるという。これこそがプーさん世界の魅力の本質だ、という風に私、考えているわけですね。考えているし、実際にそういう意図の作品に、長編の2本はなっている。

ただ、この2011年版の方はですね……先ほど言いましたようにね、あまりにも興行的に失敗して、ディズニーの2Dアニメーション部門が閉鎖になってしまったんですけども。プーさんならではのナンセンスギャグ……要するに、俯瞰視点から話の中に入っていくと、もうプーさんやあの森の仲間たちが、もう「全員オバQ」みたいな。全員ボケなんですよ(笑)。だから、ひたすらナンセンスな勘違いギャグが、もう一種無方向的に、話がどこに進んでいるのかどうかわからないまま、ずーっとシームレスに連鎖していくという、そういう方向に過激化した作りになっていてですね。

そのせいか……まあでも、とはいえプーさんならではの「不憫さ、ゆえのかわいさ」、あるいはその不憫さ、ゆえの物語的推進力、みたいなものはきっちり押さえられているし、僕はめちゃめちゃ大好きな1本なんですね。僕は非常に高く評価しているんですが、たしかにこの2011年版は、僕が見てても、本編はもう60分ぐらいなんですけど、「このいつ果てるともしれない勘違いギャグ地獄が、あと5分長く続いていたら、オレは気が狂っていた……!」っていう風に思うぐらい(笑)、まあはっきり言って実験的な作りで。少なくとも広く観客に受け入れられるような作品ではなかった、というのはたしかだと思います。はい。

 

■「プーさん」の一番ウェットな部分を最大化

で、そこにいくと今回の『プーと大人になった僕』。原題はズバリ『Christopher Robin』ですね。さっき言った、クリストファー・ロビンとプーさんたちのひとまずのお別れ。『ドラえもん』で言うと「さようならドラえもん」的なやつですよ。「君だけはいつまでも変わらずここで“何もしない”をしていてほしい」というあの切ない場面。要するにクリストファー・ロビンは、先ほどのメールにあった通り、自分で主体的に成長することを選ぶ。そして「成長するには君たちとは別れなきゃいけない」っていう風に、主体的に選ぶという、その切ない場面。そのセンチメントから発想した……つまり、感情的にはプーさんのお話の中でも、いちばんキャッチーなところ。

要するにプーさんっていうのは、基本的にはそんなにウェットな話では全くないですから。さっきから言っているように「お前らはバカか!」っていうような話が延々続くというものなので(笑)。プーさんの中でいちばんウェットな部分、っていうか唯一ウェットな部分、っていうのを広げてみせた、そういう発想からきた一作なので。まあより万人受けするようになっているのは間違いないとは言えると思うんですよね。それと同時にですね、さっき言った長編二作が打ち出していたような、その「実在の少年の実在のぬいぐるみを元にした実在の本が元ですよ」っていうメタ構造みたいなものは、完全にオミットされてます。

なので、まあもちろん元がぬいぐるみっていうキャラクターですから、実写化っていうのとの相性はたしかによくて。実写化というものをするのには非常に自然です。ただ、それが自然なだけにですね、クリストファー・ロビンの1人遊びの脳内イメージであったはずのこのキャラクターたちの、その根本の、「じゃあこの人たちはなんなの?」っていう線引きが、(実写化が”自然“なぶん)若干曖昧になりやすく……それがどうなったか。これが後にですね、僕には大きな引っかかりを生むポイントになってるんですけど。これはちょっと後ほど詳しく言いますね。

まあとにかく、クリストファー・ロビンは学校に行ってですね、これは実際の史実とは違うんですけど、お父さんを早くに亡くして。要するに「早くから大人にならざるを得ない」という設定が加わって。そしてあまつさえ、第二次大戦に従軍して。ねえ。クリストファー・ロビンが兵隊に……(泣)。で、すっかり仕事人間、中間管理職となったユアン・マクレガー演じるクリストファー・ロビン。これ、ユアン・マクレガーというキャスティング。加齢によるイノセンスの喪失っていう意味では、『トレインスポッティング』~『T2 トレインスポッティング』、二作目に至るあのイメージも、ちょっと重なるようなキャスティングかと思いますが。

 

■大人になって見るプーは超迷惑

とにかく、当然ながら大人になりましてね。「何もしない」の正反対な人生を送っているわけです。これは我々もね、大人になればみんなそうですよね。で、なんやかんやあって、こちらは当然のように数十年前と全く変わらないプーさんと、再会することになるわけですけど。ここでクリストファー・ロビンはですね、ロンドンで(プーが)後ろにいて、「プー……?」って。で、「まさか、そんなわけはない。疲れすぎて僕は壊れてしまったんだ!」なんてことを言って驚くわけです。で、なおかつ第三者の視線というのは微妙に遮断された描写……要するにプーがしゃべって動くところを第三者が見るという描写、それはないわけですね。第三者から見えるところからは、かならずプーは遮断されている。

なので、「ああ、じゃあやっぱり動いてしゃべるプーさんっていうのは、今回の『プーと大人になった僕』という本作品においても、クリストファー・ロビンの脳内イメージという設定のままなんだな。そういうことでいいんだな」って、なんとなーく思いながら見られるようにはなっているわけです。まあ、その件はいまは置いておくとして……後ほど言いますね。で、ここで面白いのはやっぱり、『劇画・オバQ』と本当に重なるところでもあるんですけども、子供時代には愉快痛快だったプーさんの、大人の社会的常識の枠に全くとらわれない無邪気さ、おバカさんっぷりみたいなものが、すっかり社会化、大人化しきったいまのクリストファー・ロビン的な身、つまりいまの大人になった我々の身からすると、普通に超迷惑!っていう(笑)。

そのなんて言うのか、悲しい乖離っぷりっていうのがしっかりと描かれるあたり。これはやっぱり、本作でいちばん興味深いし、面白いあたりだと思います。ただでさえ気が狂いそうな難題を押し付けられ、人生の岐路に否応なく立たされてしまった、まさにその日に、もう、ちょっと放っておくだけでドンガラガッシャーン! とか(笑)、ちょっと放っておくとビチャビチャビチャ~ッ!って、それでベチョベチョベチョベチョしながら歩いたりとか、そういうやつがいきなり押しかけてきて、しかも悪びれる素振りもない、っていう。劇中のクリストファー・ロビンならずともイライラしてしまうのは無理からぬ話だな、って大人だったら思うと思うんですよね。

これはある意味、働きながら子供を育てる大人のみなさんのメタファーでもありますし、そうじゃなくても、忙しさにかまけて人間的余裕がなくなったという経験ががある大人だったら、非常に身につまされるあたりですよね。ということで、ついプーさんに冷たい暴言を吐いてしまったり、プーさんはプーさんで「うん、じゃあもう友達をやめてもいいよ」なんてことを言い出したりですね、このあたりはモロに、この『ウィークエンド・シャッフル』、前にやってた番組時代の人気特集、「元トモ」とか「疎遠」。あのイズムですよね。それが全開で、本当に悲しくなるし切ない話で、「ああ、ここは……」っていう感じで。

 

■後日譚として上手いし泣ける……前半までは

ここぐらいは僕も、本当にかなり思い入れて、時々落涙などしながら見ておりました。ここで終わってしまえば本当に『劇画・オバQ』なわけですね。『劇画・オバQ』っていうのは、オバQが正ちゃん、かつての親友に会いに行ったら、「ああ、正ちゃんはもう大人なんだ。もう僕の出る幕はない」って言ってしょんぼりと帰っていく、っていう話なんだけど。今回の『プーと大人になった僕』っていうのは、まあいろいろあって、案の定と言うべきか、穏当にクリストファー・ロビンもちょっとだけ童心を取り戻す、っていう展開になっているわけですね。

でもこの彼が、「100エーカーの森」にいる時だけじゃなくて、現世、俗社会に戻ってからも、ちょっとだけ童心を取り戻したまんまになってる、ということを示す描写が、その前の方で、クリストファー・ロビンが同じことをやっていたプーさんにイラつくっていう描写との対になっている、というあたりは非常に上手いし。その、押し付けがましくなく、ちゃんとグッとくるようになっていて。このあたりとか、「ああ、上手いな!」って思ったりしました。ここらへんぐらいまではまあ、こういう後日譚というのもなしではないだろうな、まあ、よく考えられてる部分もあるなっていう(くらいのテンションで自分は見ていた)。

で、ぬいぐるみたちも、なんだかんだで先ほどのメールにもあった通り、古ぼけたぬいぐるみたちの実在感とか、あとは若干の汚らしさ込みでの、不憫さ。やっぱりこのプーさんのかわいさの基本は、「不憫さ」なんで。不憫さゆえのかわいさ、みたいなものもしっかり、ちゃんと表現されているなと思ったわけですね。だから、ここぐらいまではよかったわけです。クリストファー・ロビンがもう1回ロンドンに戻るところまでは、心おだやかに、なんなら落涙とかしながら見ておりました。

 

■クライマックス目前、踏み越えてはならない「プー」の一線を踏み越えてしまう

ただですね、クライマックスに向けて、第三幕目というか、アクション的な見せ場を含む、サービスのつもりなんですかね、盛り上げ展開を足し算していく中でですね……僕的には非常に重大な一線、さっきから言っているプーさんの本質に関わる一線を、この『プーと大人になった僕』は、割と無造作に、非常に迂闊に、シレッと踏み越えてしまうんですね。まあ、そのクリストファー・ロビンの娘さんもですね、プーさんたちとコミュニケートできる、っていうのは百歩譲って、まあ彼らというのは童心の象徴なんだからっていうので、その娘さんが改めて童心を取り戻した瞬間に彼らとコミュニケートできる、っていうのは一応ありとしたとしても……ただ、僕はそれすらも正直、さっき言ったようにプーさんの本質は「少年期から振り返った幼年期」っていうのがキモなのに、それを大雑把に「童心」っていうところにくくっちゃうっていうのも、「なんか雑だな」って思いながら。「そういうことじゃないんだけどな」って。

だからあの娘さんは、僕から言わせると、もう彼らとはコミュニケートできなくなっている歳なんですけどね。ただ、まあまあ、そこは置いておこう。童心の象徴だとしても……どう考えても何の関係もない街のおっさんとか警官とかタクシー運転手とかが、「ええっ、ぬいぐるみがしゃべって動いている!?」とか驚く描写が入っているわけですよ。途中に不用意に。完全に、どう考えても余計。こんなの、なくたっていいんですよ。話として成り立つし、余計だし。プーさんの本質を決定的に損なう、大変無神経な描写だという風に僕は思いました。

僕の考えでは、加えて言うなら、クリストファー・ロビンの奥さんが自分の夫に対して抱いている「仕事もいいけど家族のケアはどうなってるの?」っていう不満、これは「大人の問題意識」なので。彼女はやっぱり大人サイドの人としているので、やっぱりその奥さんとプーさんたちが、そのまま普通にコミュニケートしてしまうっていうのも、「それは違うだろ」っていう風に、非常にその思いが拭えずに見ていました。実は、さっき言ったタクシー運転手とか街のおっさんたちが驚くっていうようなくだりが出るまでは、第三者がプーさんたちを見た瞬間、微妙にファジーな……要するに「動かないぬいぐるみを見ている」っていうところに、ちゃんと一応その一線を(守るような)、その範囲の描写にとどめていたんですよね、そこまでは。

なので僕は、ずっと見ながら、「ああ、ちゃんとそこもバランス的に考えぬかれているんだな」って感心をしていたんですよ。なんだけど、その第三幕以降のある一点から、その設定がもう一気に、坂道を転げ落ちるようにグダグダ化していくという。そこでもう僕は本当に、怒りにも近い失望を覚えました。「なんだ、この何も考えてなさは!?」っていうね。プーさんたちがクリストファー・ロビンの脳内存在でないのならば、あの「100エーカーの森」っていうのと、現実のサセックスの田舎の森っていうのが隔てられている意味も、全くなくなりますよね。

 

■『プー』はパディントンじゃねえんだよ!!

たしかにその他の部分では、よく考えられてるなという部分はあるんですよ。たとえば、「仕事か、家族との時間か」という、割と普遍的な二者択一とか二律背反の問題に対して、安易に「家族が大事に決まってるだろ!」みたいな綺麗事だけに落とし込まずに、ちゃんと仕事サイドとの両立っていう離れ業的解決を……これはまあもちろん、史実とは違うと思うけど、あるその労働条件、労働制度と絡めて示すあたり。これは「ああ、その手があったか!」と、まあ私、非常に感心しました。ただ、それに関連して、エンドロールのおまけ映像。そのクリストファー・ロビンのナイス提案により、みんなハッピーになりました、というその絵面の中に、やはり森の仲間たちまでシレッといるのは、完全にプーさんの本質を損なう何かだ、と僕は思います。これ、パディントンとかとは違うんですよ。パディントンみたいになっちゃっているわけです。パディントンはパディントンでいいんだけどね、パディントンとプーさんは違うんだよ!っていう。

で、プーさんたちが生きて見えるのは、100歩譲ってクリストファー・ロビン以外だったら、娘さんと、あとはあの、悪役にあたる彼だけが、「あれ? いま、俺のことを、見た?」(で、周りの人間が)「お前、おかしいんじゃね?」ってやると、彼の中にある、なにか決して悪人になりきれない部分、みたいなのを示すみたいな感じで、フォローになっていいんじゃないかと思いましたけど。それぐらいの節度を持って描くことは、いくらでもできたはずだと思うんですよね。だし、描くべきだったと思う。

僕がさっきから言っている、プーさんたちのこの物語の中での存在設定っていうのは、単に僕は「元がこうだったからこうすべきだ」って言っているんじゃなくて。今回の話、要するに、彼らを忘れてしまったその後のクリストファー・ロビンが、彼らと再会してどうなるのか?っていうのが、今回のお話の根幹でしょう? クリストファー・ロビンにとって、彼らが本当には何だったのか?っていうのは、今回のお話の本質に深くかかわる部分ですよ。それを、こんなグダグダな設定の踏み越え方をするっていうのは……本当に、ちょっと許せないレベルで台無しだと思う。

同じようなテーマを扱っていても、最近でいえば『ブリグズビー・ベアー』しかり、『ボス・ベイビー』だってそうですよね。ちゃんと同じことをやってるんですよ。なのに今回は、これはちょっとありえないグダグダぶりだと思います。監督のマーク・フォースターは、過去作、たとえば『ネバーランド』、ピーター・パンが作られる秘話を描いた『ネバーランド』とも通じる、その現実と虚構がシームレスな世界っていうのを概ね上手くは描いている、だけに、「だったらその一線を守りながら描くことも全然できたはずだろう、あんたの腕なら!」とも思うし。あるいは演者、俳優さんであるとか、美術も素晴らしいし、VFXもきっちりやっています。ぬいぐるみの表現とかもすごくいいです。しっかりしてる。

だけに……もちろん、今回の映画を見て「これはこれでいい」とか「面白かった」とか「感動した」という人の、その気持ちを否定するわけではございませんが。しかし、ことプーさんの本質ということをしっかり考えるならば、これはちょっと安易な一線の越え方をしてしまった、僕的には極めて残念な一作でした。プーさんファンとしては、ちょっとこう言わざるを得ない一作でございました。劇場で、ぜひぜひ、ウォッチしてみてください……(異常に暗い声で)。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『若おかみは小学生!』に決定!)