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あなたは魚(いを)の骨になりなさい 水俣病センター相思社・永野三智さん

久米宏 ラジオなんですけど

TBSラジオで毎週土曜日、午後1時から放送している「久米宏 ラジオなんですけど」。
12月15日(土)放送のゲストコーナー「今週のスポットライト」では、熊本県にある「水俣病センター相思社」で患者の支援や水俣病について伝える活動をしている永野三智(ながの・みち)さんをお迎えしました。水俣病の講演会などに呼ばれると「ひげもじゃもじゃの60~70代の男性が来るかと思ったら、こんなに若い人! しかも女性」ととても驚かれるそうです。久米さんもご本人を前に、女子高生に見えると言っていました。相思社ではいま、永野さんのような若い世代(20代~40代)が水俣病を「終わったこと」にしないために広く知ってもらう活動をしているのです。

永野三智さん

永野さんは1983年、熊本県水俣市に生まれ、水俣病患者はとても身近な存在でした。でも成長するにつれ水俣出身ということで差別的なことを言われたり、嫌な思いをするようになりました。15歳から親元を離れて熊本市の高校に通い、出身地を隠して暮らしていました。水俣や水俣病のことを人に話すのはタブーのような感覚はいまでも地元にあるそうです。でも永野さんは20歳のときに、幼い頃の書道の先生である溝口秋生(みぞぐち・あきお)さんの水俣訴訟を傍聴してから水俣病に向き合うようになります。この溝口さんが起こした「溝口訴訟」は、水俣病の話の中で大きな意味を持つものです。

溝口さんの母親・チエさんは水俣病の症状があり熊本県に患者認定申請をしていましたが、認定に必要な公的な検診を受けられないまま1977年に亡くなりました。そして熊本県は1995年に「公的資料がない」という理由で溝口チエさんの水俣病認定申請を棄却したのです。この処分の取り消しを求めて溝口さんが闘ったのが、溝口訴訟です。

「当時、熊本市内で暮らしていた姉から『溝口先生が裁判やってるってよ。傍聴に行こうよ』と誘われて、行ったらそれが水俣病の裁判でびっくりしたんです。その頃、私は鹿児島県大口市(水俣市とは県境を挟んでお隣り)出身だと偽って生活していたんですが、裁判所に来ている水俣の人たちは自分を賭けて闘っている。本当にただそこに住んでいただけだと思っていた人たちが実は水俣病だった。溝口さんは母親が水俣病で亡くなって、息子さんは胎児性水俣病で、ご自身も症状がある。それは本当にショックでした。ただ私はここでとても不思議な解放感を得たんです。ここでだったら自分を偽らなくていい。ここでだったらありのままの自分でいていい。やっぱり何かを隠して暮らすって大変なストレスだったんっだなって、いまは思います」(永野さん)

この裁判はのちに最高裁まで争われ、2013年にチエさんを患者と認定するように義務付けた判決が出て、勝訴が確定しました。それにしてもなんと長い年月がかかったのでしょう。永野さんは、2003年に裁判を聴いて溝口さんを支援するようになり、水俣病に向き合うようになりました。そして2008年に「水俣病センター相思社」の職員となります。相思社は水俣病患者の拠り所であり闘いの根拠地として、作家の石牟礼道子さんや社会学者の日高六郎さんたちの尽力で1974年に設立されました(お二人は今年お亡くになりました)。永野さんはいま患者の相談を受けながら、「水俣病歴史考証館」で水俣病について伝える活動を行っています。

今年(2018年)で水俣病が公害認定されて50年になります。患者が公式に確認されたのは62年前(1956年)。地元で症状が確認されていたのは70年以上も前です。それでもいまなお水俣病の問題は終わっていません。患者認定申請をしても毎年多くの方が棄却されています。

久米宏さん

「水俣病と認定された方は何人ぐらいいるんですか?」(久米さん)

「2280人ぐらいです」(永野さん)

「隠れた水俣病、まだ言えていない人はどれくらい?」(久米さん)

「言えていない人の数は分からないですが、患者は全体で20万人はいるだろうと思っています。そのうち1万2000人が1995年の政府解決策で一応の〝解決〟といわれます。また5万3000人の人たちが2010年から2012年の間に申請して認定された。そのときも6万5000人の方が申請しているので1万2000人は却下されているわけです」(永野さん)

水俣病の症状はあっても患者認定の申請をしていない人が、実はたくさんいます。水俣病は人々から「言葉」を奪ってきた病です。問題が注目された初期の劇症患者たちは口をきくこともできずに亡くなっていきました。胎児性患者たちも脳への障害からはやり満足にしゃべることができません。そして軽度や慢性の水俣病で苦しんでいる人たちは、自分は水俣病であると声をあげることで差別を受けることを怖れて誰にも語れないのです。認定申請どころか、身近な人にさえ話すこともできないまま何十年も症状に苦しんでいる人も多いのです。水俣病と認められたい、でも認められるのは怖い。苦しさがぎりぎりになった人たちが、本当に悩みながら相思社に相談にやってくるそうです。「相思社に電話してもし誰もでなかったら諦めようと思っていた」「直接訪ねてみて、もし担当者に会えなかったらもう相談するのはやめよう」、そんなふうに永野さんに吐露する患者さんも少なくないそうです。

スタジオ風景

「兄弟でも、自分の身体のことを話していないということがあるとか」(久米さん)

「夫婦でも話せないという方もいます。一方はいつも家にいるから行政から水俣病の通知が来ても連れ合いには分からないように回収できる。もう一方はというと、私書箱を持ってるんです。相手の目に触れないようにして郵便物を回収している。そうやって何年も何年も、相手に自分が水俣病であることを言わなかったご夫婦が、本当に身体の限界が来てもう離婚だとなったときに、実は自分は水俣病なんだと打ち明けたら、もう一方も実は自分も…と言って。いまは本当に笑い話として私にその話を聞かせてくれますけど…」(永野さん)

みな、やっとの思いで坂をのぼる

水俣病が騒がれるようになって60~70年、公害認定から50年も経つのに、このようなことはまだあまり知られていないのではないでしょうか。永野さんは、悩みに悩んだ末にやっと決心して、つらい身体を押してはるばる相思社まで足を運んできた人が話していったことを「なかったことにされるのは耐えられない」という思いから、今年(2018年)9月、1冊の本を出しました。タイトルは『みな、やっとの思いで坂をのぼる』。水俣市の外れの山の上にある相思社へ続く長い坂道をどんな思いでのぼっていくのか。考えると胸が苦しくなります。

相思社への坂道

「この本には、役場からも漁協からも『水俣病に申請しちゃならん、こん島から患者ば出したらならん』って言われてたんだから、絶対に申請できねえんだって言い張って亡くなったおじいちゃんの話が出てきます。つまり患者を出したら地元の恥だって、水俣病を差別したわけです。でも時間が経ってくると、差別した人たちも体調が悪くなって、今度は自分が差別される立場になってきた。そういう非常に複雑な構図がたくさんあるんですね」(久米さん)

「差別していた人たちが被差別者になっていくんです。でも被差別者の立場になったことを知られたくなくて、また差別する。分かります? 自分が患者だということがバレたくないから誰かのことを指して『あの人はニセ患者だ』って言うんですよ。だけどそういう人が相思社に来て自分の身体のことを訴えるんですよ。初め私はそういう人のことがよく分からなかったんです。どうしてなんだろうって思ってたんです。だけど、自分の出身地を偽って裁判所に行ってそこで解放感を得ていた私と、あの人はニセ患者と言いながら相思社に来て自分の症状のことを言う人と、どこが違うんだろうって思ったんです」(永野さん)

同じ被害者でありながらそこには様々な思いが実に複雑に絡み合っています。そのことを利用して原因企業のチッソや行政は水俣病をなかったことにしようとしたり、水俣病問題を終わらせようとしてきました。それはいまも変わっていないようにみえます。

永野三智さん

「私が相思社に入ったときに近くに住んでるおばあちゃんが言ってくれたのが、あたなは『いを』の骨になりなさいって。『いを』は水俣弁で魚って意味なんです。魚の骨になりなさいって。国家が水俣病や理不尽なことを飲み込もうとするときに、のどに刺さった一本の魚(いを)の骨があることで飲み込めない。そういう存在になりなさいって言われて。患者さんたちに聞いた話とか、私も子供の頃に胎児性患者のお姉さんを差別してしまったことって、本当に魚(いを)の骨だなって思うんですよね。それと同じように私たち相思社の活動も、本当に一本の小さい骨なんだけれども飲み込まれないような、そういう存在であり続けたいなって思っています」(永野さん)

歴史考証館の展示

水俣病センター相思社が患者支援と並んでもう一つ大事にしているのが、水俣病について伝える活動です。「水俣病歴史考証館」で水俣病関連の様々な資料を展示したり、水俣のまち案内を行っています。歴史考証館では「実物の展示」に力を入れています。なぜなら「実物」はときに言葉以上の説得力を持つからです。永野さんたちの話からは多くのことが私たちに伝わってきますが、実物展示は言葉とはまた違った質の語りあると永野さんは言います。チッソ附属病院の細川一院長(当時)が工場廃液をネコに直接与えて水俣病を発病するか実験したときの「ネコ実験の小屋」や(この実験によってチッソからの排水が〝奇病〟に関与していることを確認しましたが、そのことをチッソは無視して排水を流し続けました)、汚染された魚を閉じ込めるために水俣湾で使われた網、石牟礼道子さんの『苦海浄土』の原稿、「怨」と染め抜かれた黒い旗(怨の字を提案したのは石牟礼さん)など、どれも実物だからこそ雄弁に私たちに語りかけてくるものがあるのだと。永野さんは、ぜひ多くの人に水俣に足を運んでもらいたいと強く思っています。

永野三智さんのご感想

永野三智さん

今日いちばん伝えたいと思っていた「水俣病歴史考証館」のことを話すのを忘れてしまいました。すごく残念です! 話さなきゃと思って紙に書いてきたのに、テーブルに並べておけばよかったですね。

もう、あっというまの35分。放送の前に久米さんと少しお話したときに、水俣病について語れない人がいるということにすごく驚いてらして、そのことを知りたいし、伝えたいとおっしゃったんです。そこをすくい取ろうとしてくださって、とても嬉しかったです。

水俣病の歴史を久米さんが話してくださいましたが、私が話すより久米さんが話す方がたくさんの方に聞いていただけるでしょうから、「よし!」と思いました。久米さんにはすごくリラックスさせていただきました。ありがとうございました。



「今週のスポットライト」ゲスト:永野三智さん(水俣病センター相思社)を聴く

次回のゲストは、芸人転職サイト「芸人ネクスト」運営・中北朋宏さん

12月22日の「今週のスポットライト」には、お笑い芸人の転職を応援するサイト「芸人ネクスト」を運営する中北朋宏さんをお迎えします。中北さんご自身が元芸人。お笑いの経験とコミュニケーション能力を生かして、いままでにない人事コンサルタントとして活動しています。

2018年12月1日(土)放送「久米宏 ラジオなんですけど」http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20181222140000

radikoで放送をお聴きいただけます(放送後1週間まで/首都圏エリア無料)