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宇多丸、『斬、』を語る!【映画評書き起こし 2018.12.21放送】

アフター6ジャンクション

宇多丸:

ここからは私、宇多丸がランダムに決めた映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜はこの作品です。『斬、』

(曲が流れる)

漢字で「斬る」と書いて『斬、』。しかもこの音楽を担当されている石川忠さんは、この作品の完成前に亡くなられてしまって。で、ずっと塚本晋也作品の音楽を担当されてきたんですけど、その親交の深さもあって、塚本さんが石川さんの元々作られていた作品のいろんなデータとかを編集して、この作品に当てて……っていう。作りかけのデータとかも含めて完成させて、見事シッチェス・カタロニア国際映画祭で音楽賞を受賞した、ということなんですよね。そんな経緯もあるという作品でございます。

『鉄男』や『野火』など世界中で評価を集める塚本晋也が、監督・脚本・撮影・編集・制作・出演を務めた初の時代劇。開国か否かで揺れ動く江戸時代末期。剣の才能はあるが人を斬ったことがない浪人・杢之進は、江戸近郊の農村で穏やかな日々を過ごしていたが、腕の立つ剣豪・澤村と出会ったことで生と死の世界に踏み込んでいく。主演は池松壮亮、蒼井優、そしてまた塚本晋也さんご自身といったあたりでございます。

ということで、もうこの『斬、』を見たよ、というリスナーのみなさま<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「普通」。多からず少なからずということなんですけど、都内の上映館がユーロスペース1館だけということを考えると、これはかなり多い方だと言っていいんじゃないでしょうか。賛否の比率は「賛が9割」。その他が1割。

主な褒める意見としては「年末にこんな傑作に出会えるとは。今年ベスト!」「時代劇でありながら、暴力による負の連鎖、正義のための暴力は許されるのか? などの普遍的テーマが盛り込まれ、現代にこそ見るべき映画」「オープニングから全編に響く刀が生み出す音の迫力に圧倒された」。なんかこう、「キキーン、ピキーン、キーン!」とか、ずーっとみなぎっている……刀そのものに「圧」がみなぎっているような表現が劇中でありますよね。「何者でもない若者が何かになろうとあがく青春物語としても見どころあり」「余韻を残すラストも素晴らしい」などがありました。

否定的な意見としては「シンプルすぎる物語、盛り上がらないクライマックスで退屈だった。映像面もカメラの動きが激しかったり、暗い場面が多かったりと、見づらいだけで斬新さが感じられなかった。モヤモヤばかりが残る映画だった」といったあたりでございます。まあ、モヤモヤが残るっていうのは意図的な部分もあるでしょうけどね。ということで、代表的なところをご紹介しましょう。

 

■「殺人として殺陣を描き、その悲惨さを観客に叩きつけてくる」(byリスナー)

「キハチロー」さん。「日頃から時代劇に親しんでいますが、殺陣の場面を楽しみつつも、『本当は血が噴き出し正視できない光景なんだろうな』と一歩引いて考えることが多くあります。前作『野火』同様、塚本監督は一切のヒロイズムを廃し、『殺人』として殺陣の場面を描き、その悲惨さを観客に叩きつけてきます。刀の重さ、鞘から取り出される時の鋭い音など『これが人に当たればどういうことが起こるか?』と想像させられ、身の毛がよだつようでした。直接的な暴力描写が中盤まではないこともあり、いつ暴力が噴出するのかと恐怖が高められました」。まあ、暴力描写は序盤に1個あって、この1個の軽さがまた上手い、っていう話も後ほどしますけどもね。

「何よりも怖いのは、塚本監督扮する剣客・澤村。人を殺すことをためらう主人公・都築杢之進に対し、人を斬ることが当たり前である澤村の圧倒的な『他者感』。まるで軍隊の論理の中で生きる者のようであり、一度でも他者に暴力をふるった者がどう変質してしまうのか? 都築もまた、彼のようになるのでは? と嫌悪感さえ覚えるほど恐ろしかったです。都築、澤村、そして蒼井優さん演じる女性、ゆうが彷徨う山中の場面は夢幻かつ地獄のように美しく、この道中がいつまでも続いてほしい、つまり解決に至らないでほしいとさえ思いました。時代劇というジャンルに誠実に向き合いつつ、どこを切り取っても塚本印が刻印されている見事な一作と思います」ということでした。

一方、「トマト娘」さん。こちらは、ダメだったという方。「結論から言えば、残念ながら今年はワースト級の1本でした。冒頭の殺陣のシーン、そのへんの田舎で素人が撮ったようなチープなルックに閉口。いかにもデジタルな陰影のない安っぽい画。いまの時代にやたらとカメラを揺らして緊張感を煽ろうとする撮影法に初っ端からげんなり。以降も殺陣のシーンのたびにカメラを揺らし、何が起こってるのかすらよく分かりませんでした。

チープなルックも『野火』ではギリギリ許容範囲でしたが、いかんせん時代劇とは相性が悪く、そもそも私には時代劇にすら見えませんでした。あと、塚本監督はなぜ俳優として出たがるのでしょうか? はっきり言って演技は上手いとも思えないし、とても剣豪には見えませんでした。『カメラを止めるな!』が大好きな私であっても、こういう作風に対してはDIY精神とかインディペンデント精神という言葉をもって評価する気は起こらないです」という、非常に厳しいご意見でございました。

 

■急激に変容する肉体と精神を通じ、人間性を成り立たせる一線を浮かび上がらせる

といったあたりで『斬、』。私は『週刊文春エンタ!』という雑誌の、10本映画を見て点数を付けるという企画で、一足お先に拝見していて。その後今週、ユーロスペースで見てまいりました。山本匠晃アナウンサーもユーロスペースに見に行ったということで。まあ1館のみというのもあるんでしょうが、昼の回から結構入っていたという感じですかね。

ということで、塚本晋也監督作品。前作が大岡昇平の名作小説の2度目の映画化、2015年の『野火』でございました。僕は前の土曜日の番組『ウィークエンド・シャッフル』時代、2015年8月13日に評しました。あのこれ、いまは公式で書き起こしやってもらってるみやーんさんによる、当時はまだオフィシャルじゃない頃の全文書き起こしがいまでも読めるので(笑)……僕自身も、そのみやーんさんのサイトに行って自分の評を参照しましたので。みなさん興味のある方は見ていただきたいんですけども。

で、その中で僕は塚本晋也作品の、それこそ劇場映画デビュー作『鉄男』。1989年の作品以来一貫しているテーマとして、こんなことを言っています……「何らかのきっかけで急激に変容していく人間の肉体と精神。塚本作品においてはこの肉体と精神は完全に不可分、というよりも『一体化したモノ』なんですけども。とにかく、その急激に変容していく肉体と意識、精神の有り様を通して、人間とか人間性というものを成り立たせている、そのギリギリの一線とは何か?」(を問いかけてくる)

さっき、刀が「キキーン、ピキーン、キーン!」って音がするって言いましたけども、そんな感じで、文字通りギリギリギリギリ……と強烈な圧をかけてくるような作風で、人間性を成り立たせているギリギリの一線とは何か?っていうのを突き詰めていく。本当に絞り込むように突き詰めていく。で、その人間性、人間を成り立たせている一線を、「超えてしまう恐怖」を描くのか、あるいは「超えてしまう快感」を描くのか。もしくはその一線を越えた先から、改めて人間性というものを振り返って照射し返すのか。まあ、そういう作品ごと、もしくは時期によって違いはあるんだけど、大きく言えばやっぱり塚本晋也さんの映画は、常にこういうことを言っている。その、急激に変容していく肉体と精神を通じて、人間とか人間性を成り立たせているギリギリの一線を突き詰める、という。こういうモチーフを描いてきたといえる。これ、『野火』評で言ったことですけども。

 

■前作『野火』以上にシンプルに削ぎ落とされた『斬、』

で、『野火』の場合は、さらにそこに加えて、塚本晋也さんご自身の、いまの日本社会が向っている方向に対する強い危機感、問題意識が込められている、という。非常に戦争しやすい国に向かってるんじゃないか? 我々全体がそこに流されているんじゃないか?っていう危機感が込められているのに加えて、『野火』の場合は、先ほどのメールにもありましたけども、かなりの低予算で制作をしているんだけども、そのかなりの低予算で制作しなければならなかったことこそが、結果として作品をソリッドに絞り上げて、最終的には塚本晋也さんのフィルモグラフィーをまた一段上のレベルに押し上げるような、新たな大傑作・代表作となった……というのが『野火』でございました。

その意味で今回の『斬、』は、完全にその『野火』の延長線上で、というか『野火』以上に、塚本晋也作品のエッセンスがソリッドに……それこそ冒頭でまず映し出される、刀鍛冶の場面、光景が映し出されますけども。ひたすらに叩き上げ、鍛え上げ、鋭利に磨き上げたかのように、本当に必要最小限度、究極的にシンプルな形で提示される、ということですね。

たとえばですね、人間にその一線を超えさせる暴力的装置。その一種、究極的象徴、暴力的装置の根源として「刀」、刃物っていうものがある。しかも、それがわかりやすくファルス的なもの、男根的なもの、性的なメタファーとしても描かれる。これ、まさに『鉄男』ですよね。『鉄男』的な描かれ方をする。刀を非常にフェティッシュに映したりとか、もしくはさっきから言っているように「キーン! キリキリキリッ!」っていう、刀そのものが圧を持って外側に力を発しているようなモノ……まさに「モノ」ですよね。モノとして描かれるという。

と、同時に、これは旧来的なエンターテイメントとか時代劇に対する批評であり、暴力的な、マチズモ的ヒロイズム批判にもなっているという。そしてそれらが、『野火』以上に切迫した、いまの日本社会、時代への危機感としてこちら側に投げかけられる、という感じの作品となっている。今回の『斬、』は。

 

■最初のイメージは「1本の刀を過剰に見つめる若い浪人」

まあ、お話自体は本当にシンプルなんですよ。めちゃめちゃシンプル。具体的なストーリーが決まる前、「1本の刀を過剰に見つめる若い浪人」という、20年前から塚本さんが抱いていたというイメージに、ぴったりハマったという池松壮亮さん。彼が演じる若い浪人は、ストーリーのあらすじ説明にもありましたけど、幕末についに動き始めた時代の中で、「いずれは自分もなんかしなきゃいけないんだろうな。侍として、侍の本分をいつかは果たさなきゃいけないんだろうな」くらいには思いつつも、まあ農村で……で、農民からすれば、半ば用心棒的な期待も込みで彼を置いているわけですよ。ここがちょっと、後ほども言いますけど、ちょっと『七人の侍』批評的な部分ですよね。

そこで、オーディションで選ばれたという前田隆成さん演じる、本当に典型的な「血気盛んな若者」、市助というのに得意の剣術というものを教えている。ただ、剣術と言うけども、これも先ほどのあらすじにもありましたけど、この都築杢之進という侍自体は、もちろん平安な江戸の時代に生きてきましたから、どうやら本当の斬り合いの経験はないという。そしておそらく童貞であろう、というような人だと。で、とにかくその彼が、蒼井優さんが本当に文句なしの色っぽさで演じるその若者のお姉さんと、ツンデレな距離の詰め合いなんかもしつつ、まあ農村で農家の仕事を手伝ったりなんかしながら、のんびり平和に暮らしているわけです。

まあ、これはある意味現代の我々とも通じる、普通の人々、普通の暮らしですね。平穏な暮らしという。だけど、なんか時代が動いてきたし、なんか本当はやらなきゃいけないのかな?っていう気持ちぐらいはある、そんな「普通」の状態だと思ってください。と、そのある日、彼らは、塚本晋也さん自ら演じる……先ほどの2個目のメールと僕は意見を異にしていて。やっぱり、スコセッシ『沈黙 -サイレンス-』での名演といい、俳優としてもはや世界レベル、超一流の部類に入ってきてると、逆に僕は塚本さん、俳優としてそう思うんですけども。

 

■刀のおそろしさが伝わる緊張感溢れる間合い、具体的にイメージしやすい痛み

その塚本さん自ら演じる、剣豪めいたですね、浪人・澤村というのと、別の浪人との果し合い。つまり「本当の殺し合い」を目撃するんですね。で、ここの超緊張感あふれる間合いの詰め方……僕、ここも全くチープと思わなかった。こっち側の、ずっと、森の下ごしに見ている、要は池松さんたちの見ている視点で。最初は塚本さんの背中が現れて。グーッとゆっくり間合いを詰めて……つまり、とにかく刀を抜いて斬りかかったら、そこで終わりですから。もう抜くまでだって、なかなかお互いに抜かない、っていう。緊張感あふれる間合いの詰め方。まさにこれが本当の殺し合いなんだ、ということをビシビシと感じさせるような、そういう作り。

非常にもうこの、お互いが一定の距離を保ちながら前後するだけで、「ああ、お互いに怖いんだ」っていうのがすごくよくわかる。非常にその恐ろしさが伝わってくるし。ここでその、澤村さんが取る戦法の情け容赦なさ……つまりあれば、たぶん剣道気分でやっていると油断しがちなところを突いているんですよね。フッとこう、下からね。要するに、剣道だったらそこは籠手とかをしているし、あんまり気にしないところを、フッとこう、絶対に避けられない角度からすごいスピードで突いてくる、という。これは、全体に殺陣をつけてらっしゃる辻井啓伺さん、これがすごくやっぱり、塚本さんと息の合ったあたりを見せていますし。塚本さん自身も殺陣の訓練をびっちりされたんでしょう。もうビシッとした佇まいを見せている、と思いますけども。

とにかくその、澤村が取る戦法の情け容赦なさも相まって、その刀というのが、やっぱり刃物なんだと。そもそも人の肉体を切り刻むために作られた、そしてそれが本来の用途である非情かつ非道な道具なんだ、っていうその本質を、我々観客にもですね――ここが大事――実感しやすいレベルの「具体的な痛み」として、まず序盤に見せられるわけですよ。ピッ!てこうね、我々も、「ああっ、これは痛い!」っていう……要するにさ、首をポーンと斬られるとか、お腹をバサーッて斬られるっていきなり見せられても、荒唐無稽に思っちゃうけど、「ああっ、そこをそう斬られたら痛い!」っていう感じで見せる。これが非常に上手いし。

それゆえに、その後の、やっぱり刀、つまり暴力を行使すべきか否かの重み、その結果の痛みっていうのが、より切実に伝わってくるような作りになってるということですね。これ、非常に上手いなと思うあたりですし。

 

■一見頼りがいのあるメンターが、美辞麗句のもとに若者たちを暴力の世界に世界に引きずりこむ

またこの、塚本晋也監督自身が演じる澤村という剣の達人。いかにも頼りになる初老の浪人っていう感じ。これ、映画秘宝の監督インタビュー記事の、キャプションとしてついてる言葉がこれまさに!っていう感じだったんですけど。『七人の侍』……もう文句なしの時代劇の傑作、名作ですよ。世界映画史に残る。そんな黒澤明の『七人の侍』の、「志村喬と宮口精二を合わせたような佇まい」っていう(キャプション)。志村喬の、あのすごく頼りがいのあるお父さん的な感じと、宮口精二の剣豪の感じを、合わせた感じ。まさに言い得て妙。

これ、実際にこの間、春日太一さんが、忠臣蔵特集をやっていただいた後に、スタジオで帰り際にポロッとおっしゃってましたけど、この『斬、』という映画、ある種『七人の侍』に対する塚本晋也さんなりの批評的アンサーとも読める作品でもあって……ということですね。とにかくこの澤村という剣豪、激動する時代の波に乗り遅れまいと、まあ腕利きをスカウトして組を結成して、江戸から京都に出て「御公儀のお役に立ちたい」、なんていうことを言っている。

つまり、要は新撰組みたいなことがやりたい人なわけですけども。一見、常に正しいことを言う、そして正しい判断を常にしてくれそうな、マスター的な人物に見えるわけですよ。たしかにエンターテイメント作品だとこういうキャラクター、よく出てきますよね。例えば、結構似ているなと思うのは、『スター・ウォーズ エピソード4』のベン・ケノービことオビ=ワン・ケノービですよ。若者を焚きつけて誘うわけですよね。「一緒に行こうよ」って誘う。で、いろいろと教えてくれる。剣も教えてくれる。でも実際のところ彼がやってることっていうのは、若者たちの血気盛んさにつけこむように、「大きな目的」とか、もっと言えば「男らしさ」とか「侍の本分」みたいな、そういう美名というか大義を掲げてみせては、彼らを暴力的な領域に引きずり込み……っていうことですね。

一線を越えさせて、暴力的な領域に引きずり込み、結果、より巨大な暴力的事態を招いていく、ということをこのキャラクターはやっているわけですよ。そういう「よく考えたらこいつ、いちばん問題じゃないか?」っていう存在として置いているわけです。

 

■農民たちもまた暴力の行使を支持していた

かたや、村の近くにたむろするようになる浪人集団。これ、『野火』に引き続き元BLANKEY JET CITYの中村達也さんが、ごろつき軍団のボスを、本当にもう一目瞭然のカリスマ性で演じられてますけども。とにかく、これまでのエンターテイメント、それこそ『七人の侍』的なものだったら、「問答無用で退治されるべき悪」として描かれるような、このごろつき集団。

そしてこの『斬、』の劇中でも……ここが重要なんですけど、農民たちはそう願っているんです。「問答無用で殺しちゃってくれ」って思われている彼らなんだけど。池松壮亮演じる主人公の都築杢之進は、一貫して彼らと平和的に交渉・交流することを主張しているし、実際にそれを実践してみせるわけです。で、彼らの言葉を信用するなら、「悪いやつにしか悪いことをしねえよ」っていう、アウトローなりの矜持もあるようだし……彼らの言うことを信用するならば、ですけども。で、その村の若者・市助っていうのがボコられたっていう件に関しても、彼の血気盛んさが、マックスまで焚き付けられた結果……これもやっぱり、澤村さえいなければ、ここまで血気盛んになってなかったであろう結果でもあり、その割にボコられただけで済んでいるのだから、やっぱりあそこでさらにやり返しさえしなければ、そして杢之進が村にとどまっている限りは、あれ以上悪いことは起こらなかった可能性が高い、っていう状況なわけですよ。なんだけど、結局その澤村が「悪党退治」の美名のもとに、過剰な復讐、つまり複数の殺人を決行したために、事態は修復不能な領域にまで入ってしまうわけですよね。

ここでやっぱり塚本晋也さんの作劇が巧みかつフェアなのは、さっき言ったように、「農民たちもまた暴力の行使を支持していた」っていうことなんですよ。これ、現代の我々に置き換えても、平和を望む、もしくは平和を望むあまり生まれた恐怖心こそが、たとえば軍事力だったり警察力の強化・行使を望むようになっていく、という。で、その結果、より暴力的な事態の連鎖、拡大を招いていきかねない、というようなこと……このパラドキシカルな構造は、現代の我々に置き換えても、非常に実感できるあたりだと思いますし。

 

あとは、一貫して非暴力なスタンスを取っているかのように見える池松壮亮さん演じる主人公の杢之進も、実はやっぱり内心では、「男らしさ」とか「侍の本分」っていう大義名分との間で激しく葛藤を……なんなら、自分もさっさとその一線を超えて、躊躇なく暴力的になれる「男らしい男」「侍らしい侍」になってしまいたいという願望、コンプレックスも、めちゃめちゃ抱えてるわけです。で、かように暴力性と「男らしさ」が……その、杢之進のような非暴力的なスタンスを実践してるような男の中でさえ、深く結びついちゃっている。暴力性と「男らしさ」というものが結びついちゃっている、っていうあたりが、実におぞましいし、我々男性観客には実に気まずいあたり、っていうことなんですよね。

で、塚本晋也監督は、そこからやっぱり目を背けさせてはくれない、っていうことなんですよね。ラスト、女性の声の慟哭で終わるっていうのも、もちろん必然、という作劇じゃないでしょうかね。で、先ほど言った序盤の果たし合いですら、あの痛みですから。後半、洞窟内での一大殺戮。その凄まじさはですね、本当に、刀というものの本質を示す……これ、刀というものの、その本質的な非道さ、非情さというのを示す上で、本当に不可欠のゴア描写。これもさることながら、ここでやっぱり、要は澤村という一見頼りになる、間違ったことはしなさそうなその澤村の活躍=大殺戮なんですけども。その澤村の「活躍」に象徴される「ヒーロー性、ヒロイズム」っていうものが、やっぱり別の視点から見ると、やっぱりちょっと異常、一種のサディズムというのを伴っているようにも見える。

彼がですね、ここで「人を殺して捨てゼリフ」をやるわけです。人を殺して捨てゼリフ、僕らはね、シュワルツェネッガー映画とかだとゲラゲラ笑って見れるけど、その人を殺して捨てゼリフを、立派な感じで、立派な人間風に言うと、こんなにも残酷なものに見えるのか、という一連のくだり。やっぱりこれ、塚本晋也監督のたしかな視点というか語り口、というのを感じたりしますね。

非マッチョ、非暴力的な男が、でもいろいろとそのさっき言った「俺も本当は“男らしい男”に負けたくない」っていう、性的なコンプレックスなど諸々を込みで、ついに暴力性の一線を越えてしまう、という、そういう意味でのバイオレンス論映画、暴力論映画。バイオレンス映画じゃなくて「バイオレンス論映画」。暴力映画じゃなくて「暴力論映画」っていう意味で、サム・ペキンパーの『わらの犬』とも近い構造を持つ、非常にソリッドな作品じゃないでしょうかね。

 

塚本晋也監督、またフィルモグラフィーを更新したというか、またちょっと新たな領域に、さらに先に到達した、というような作品じゃないでしょうか。ストーリーが極めてシンプルな分、『野火』よりは見やすい映画だという風に言えるとも思いますし、ある意味塚本晋也作品のエッセンスがこれ以上ないほどシンプルに詰まっているので、塚本晋也作品の入門編としても最適だ、ということで。

もちろん、たとえばデジタル撮影ゆえの、「ええっ、時代劇でこれ?(映像の質感など)」っていうのはあるかもしれませんけど、僕はやっぱりこれ、要は「『時代劇だから昔の話』っていうことじゃないんだよ」っていう……これは『野火』とも通じる話ですけども、塚本監督の、そこも込みでのメッセージ。だって、そうじゃなく重々しく撮ることも、いくらでもできるんですもん。『野火』の、自然を「詩的」に撮らなかったのと同じように、時代劇の光景を、どっしりとした、叙情性のあるなにか、みたいな感じで描かなかったこと。それ自体も塚本さんのメッセージなんじゃないか、っていう風に私は思います。

まさしくいま、劇場で見るべき一作ではないでしょうか。ウォッチしてください。

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『暁に祈れ』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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