お使いのOS・ブラウザでは、本サイトを適切に閲覧できない可能性があります。最新のブラウザをご利用ください。

放送中

放送中


  • お知らせ
  • 放送ログ
  • 音声あり

宇多丸、『バーニング 劇場版』を語る!【映画評書き起こし 2019.2.15放送】

アフター6ジャンクション

 

宇多丸:

ここからは私、宇多丸がランダムに決めた最新映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜はこの作品『バーニング 劇場版』

(曲が流れる)

『シークレット・サンシャイン』や『ポエトリー アグネスの詩』などで世界から高い評価を集めるイ・チャンドン監督、約8年ぶりの新作。村上春樹の短編小説『納屋を焼く』を独自の解釈で映画化。小説家志望の青年ジョンスは幼馴染の女性ヘミと偶然再会。そして彼女が旅行先で知り合ったという謎めいた金持ちの男ペンを紹介される。ある日、ジョンスはベンから「時々、ビニールハウスを燃やしている」という秘密を打ち明けられる。

主演はジョンス役に、映画『ベテラン』の悪役でも――「KEN THE 390似だ」とか言って当時僕、すごく騒いでいましたけども(笑)――おなじみのユ・アインさん。そしてベン役にテレビドラマ『ウォーキング・デッド』シリーズのスティーブン・ユァン。ヘミ役に新人女優のチョン・ジョンソさん、ということでございます。

ということで、もうこの『バーニング 劇場版』を見たというリスナーのみなさま<ウォッチメン>からの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は……多い! やはり、まあ(宇多丸が前週インフルエンザで休んだので)2週間分ということもあると思いますけどね。あとはもちろんイ・チャンドンの久々の新作ですからね。ということで、駆けつけた方も多かったんじゃないでしょうか。

賛否の比率は「褒め」の意見が9割以上。主な褒める意見としては、「韓国の社会背景や様々なメタファーが折り重なり、全てを理解したわけではないが、とにかく面白かった」「映像も美しく、役者たちの演技もお見事」「村上春樹小説の映画化としてもよくできている」など。原作小説を読んだことがないという方も多かったそうです。一方、否定的な意見は「長くて退屈だった」「この監督の感性が合わない」。フフフ、まあ、これはしょうがない(笑)。じゃあ、しょうがないなっていう感じですけども。

 

■「イ・チャンドン監督は、この社会で生きること、人間のあり方を考えさせようとしたのではないでしょうか」(byリスナー)

代表的なところをご紹介しましょう。ラジオネーム「おニャン子マスター」さん。非常にごっつりと書いていただきまして、ちょっと抜粋いたしますが。「私にとってイ・チャンドン監督は最も尊敬する監督なのですが、作品を構成する題材選びとその組み合わせ方がとにかく巧みで、その組み合わせの先には一貫して『人間の本質』を問い続けている内容にいつも感動させられています。特に最近はより洗練され、複雑化していて、前回の『ポエトリー』の少女の死について向き合わざるを得なくなった主人公に、『認知症』と『詩を習う・書く』という組み合わせを与えたのには、この監督は本当にヤバい人だなと脱帽させられました……」というようなことをいろいろと書いていただいている。

でも「解釈がいろいろとすぐにできるような感じではない」という。「今回の作品を見てですが、これまでの作品より複雑さは増して、その難解さに見終わった後すぐはただ呆然としてしまいました。あくまで私の解釈ですが、シンプルに物語を要約してしまえば、生きづらいこの現代社会で、孤独で、いわゆる持たざる者の主人公ジョンスが幼馴染のヘミと、全てを持つ者のような存在ベンと出会ってしまい、2人に翻弄されていく中で、やがて唯一の光だと思っていたものでさえも失ってしまい、最後の出来事に繋がっていく、というストーリー。

物語の中盤にあるヘミに起きたことのメタファーとも思えるベンのあの言葉が、ジョンスとともに見ている私たちの心をどうしても支配しますが、ジョンスが小説を書いてることと、ヘミが言った『ないことを忘ればいい』という言葉。これを見落としてはならないのではないでしょうか。ここから、ただ単に全てが起きてることではなく、虚構が入り混じっていたことがうかがえます。ただ私が思うに、監督はただこの二重構造を私たちに見せたかったわけではなく、物語の複雑さをこの現代社会の複雑さとも重ね合わせ、私たちの想像力をかき立て、この社会で生きること、人間のあり方を考えさせようとしたのではないでしょうか」とかね。ただ、「これも見終わって数日の感想で、まだまだ深まるかもしれない」というようなご意見でございました。

一方ダメだったという方。ラジオネーム「前田直紀」さん。「イ・チャンドン監督作品は今回の『バーニング 劇場版』が初めてですので監督の作家性などは全く知らない状態で感想を述べます。話の起伏がなく淡々と進んでいくので、ソウル在住の若者の生活を観察している感じでした。時間が長く感じ眠気を誘い、何が起こるのか予感すら感じさせられませんでした。結末がわかってから全編の全てを理解でき、点が低評価から50点に上がりました」。途中まで退屈に感じたけども、見終わってから「ああ、そういうことか」ということもわかった、ということでございます。

■20年でわずか6作。寡作な世界的名匠の8年ぶり最新作

さあ、ということでいってみましょう。『バーニング 劇場版』、私もTOHOシネマズシャンテで2回、見てまいりました。2回っていうか、実はその前にも今回、古川耕さんのインタビューの前にちょっとね、見る機会がございまして。イ・チャンドン監督インタビュー放送の前にも、何度か見ております。ということで、計何回だろう? 結構、かなりの数、見返していると思います。あと、NHK放映版という、後ほど言いますけども、それも見返しております。

ということで、ついにイ・チャンドンの最新作を扱う日がやってきてしまいました。とにかく寡作な方でございまして、映画監督デビューしてからの約20年間、今回の『バーニング』でまだ6作目。そしてそのどれもが……少なくとも2000年の2作目『ペパーミント・キャンディー』以降は間違いなく、全作、腹にドスン!とくる桁違いの傑作・名作ばかり。まさに世界的名匠という監督でございます。僕は2007年の『シークレット・サンシャイン』で初めて見ましたが。

2008年6月、まだ結構始めたばかりのシネマハスラー。このコーナーの前身ですね。シネマハスラー時代、サイコロが当たって。だから全く見る予定もなかったし、全く僕は知識もなかったんですけど、見て。しかも評の当日は、野球延長で10分だか5分だかぐらいしか話す時間がない、という中でやったんですけども。とにかくその『シークレット・サンシャイン』に、まずはブッ飛ばされて。その年の、つまりラジオで映画評を始めて最初の年のシネマランキング、1位。これは『シークレット・サンシャイン』だったわけですね。

で、その次の2010年『ポエトリー アグネスの詩』は、何週も候補に入れ続けていたんだけど、どうしてもその、当時サイコロだったんですけど、そのサイコロがなかなか当たらず、ということで取り上げていないんですけども。ということでございます。特に今回の『バーニング』はですね、前作の『ポエトリー アグネスの詩』と連続性が非常に高いというか。「何も書けなかった人が、ついに何かを書き出す話」。単純化すればね。もっと言えば、「何を表現していいかわからない、世界というものをどう捉えていいかわからなかった人が、ついに世界の真実の一端に触れ、自らの表現手段を獲得する話」

でもそれが、必ずしもポジティブなことだけではない、と言うかね。世界の真実の一端に触れることは、その辛さを知るということでもある。これも非常にイ・チャンドン的な……「知る」ということは「苦しい」ことでもあるという、イ・チャンドンの、本当にメインテーマのひとつではありますが。という点では、前作『ポエトリー』と非常に連続性が高い、ということは言えると思いますけどね。

 

■80年代村上春樹的な傍観者スタンスを、現代的に「アダプテーション」

とにかく、なんと前作から8年ぶりのイ・チャンドン新作。しかも、それがまさかの村上春樹原作、というね。元々NHKのですね、「アジアの映画監督が競作で村上春樹の短編の映像化に取り組む」プロジェクトというのがあって。イ・チャンドンにもそのオファーが来たということですね。ゆえに、後ほど触れますが、50分短い、日本語吹き替え版のテレビ放映バージョンというのが、昨年12月に日本でもやったりしていました。なので今回は『劇場版』というのがあえて付いているわけですけどね。ただ、イ・チャンドンは最初は、「自分には無理」っていう風に断った、ということらしいんですね。

なんだけど、彼の大学の教え子でもある若手脚本家のオ・ジョンミさんって方。女性なんですけども、そのオ・ジョンミさんが、「『納屋を焼く』という作品があるのでこれならどうか?」ということでイ・チャンドンさんに紹介した。で、イ・チャンドンさんもそこに独自性を盛り込む可能性を見出して、共同で脚本を練り上げていったのが今回の作品、っていうことなんですけども。1983年に発表された短編『納屋を焼く』。読まれてる方もいらっしゃると思います。僕も、高校時代とかに読んだのかな? 読んだきりだったんですけど、今回改めて読み直しましたが。村上春樹の小説の中でも屈指の、薄気味悪い話なんですね、これがね。

謎の金持ち青年が語る「納屋を焼く」という性癖が、そこはかとなくですね、「名もなき人々を消す」っていう、“神々の狂った遊び”というかですね、要するに、金持ち青年が名もなき人々を痕跡もなく殺して遊んでる、っていうメタファーにも読めなくもない……ぐらいの、非常にやんわりと匂わす程度の感じ。あえての曖昧な着地で、真相はよくわからないまま。村上春樹自身を思わせる小説の語り手自身も、要は知人の女性が、まさに青年に焼き尽くされた納屋のごとく、忽然とこの世から姿を消したということを、ただただ本当に他人事のように、冷めた目線で……つまり、いかにも80年代村上春樹的な、傍観者的なスタンスでぼんやりと思い返すばかり、というですね。

僕は、読後感的にははかなり酷薄な印象を残す一編だと思いましたね、この『納屋を焼く』というのは。今回読み直してもやっぱり、「この語り手はちょっとどうなんだ?」っていう風に思うような小説ではありました。で、それに対して今回、さっき言ったオ・ジョンミさんとイ・チャンドンによる今回の長編映画化は、その原作小説を大きくアレンジ……というよりも、現代的な視点から大胆に再解釈をしてみせた、というようなことだと思います。で、結果やはり堂々たるイ・チャンドン映画へと、見事にいわゆるアダプテーションをしてみせたという、そんな一作ではないかと思いますね。

 

■「持たざる者」として原作から設定変更された主人公イ・ジョンス

まあ、順を追って話していきたいと思います。まず冒頭から登場する主人公のイ・ジョンス。冒頭からタバコを吸っているわけです。タバコの煙が上がってるわけですから、まあ、何かしらが燃えている、というようなことが冒頭にも示されているわけですけども。主人公のイ・ジョンス。彼の年齢や立場が、原作小説では30代既婚の小説家、限りなく当時の村上春樹さん自身をちょっと想起させるような立場から、20代の、貧しい「小説家志望」の青年へと、設定変更されている。演じているのはユ・アインさん。

これまでの役柄のイメージとはまた全く異なる……なんというかな、“薄暗い受け身感”っていうのかな。あの半開きの口とね、ちょっとなんかぼんやりした目つきっていうのでね、自然に体現してて。とってもこのユ・アインさんがいいんですけども。とこかくこの主人公、劇中でもそれとなく示されていますように、現代韓国社会の不公平さのしわ寄せを、モロに食らったような若者、ということですね。

彼が帰る実家の農村、パジュ市っていうところは、北朝鮮との軍事境界線がほど近くて、ずっと北朝鮮のプロパガンダ放送が流れていたりとか、っていうところでもあり。そして、ちょっと荒廃した農村っていう感じもする、というようなところであり。しかもそこで彼は、暴力性を抱えた父親の残したものたちと共に、非常にひなびた暮らしを送っている。そういう風に暮らすことになるわけですけども。

で、この主人公像はですね、村上春樹の原作の『納屋を焼く』の主人公像よりもですね、むしろその『納屋を焼く』というタイトルの元ネタである、ウィリアム・フォークナーのですね……日本の訳し方だと『納屋は燃える(Barn Burning)』っていうこの小説。その貧しく土着的な世界観というのにずっと近いキャラクターに、今回なってるわけです。あまつさえ今回の劇中でも、主人公イ・ジョンスはですね、「フォークナーを読んでいると自分の話だと思える」なんてことを言う。村上春樹の原作小説でもフォークナーの短編集を読んでるっていうくだりは出ますけど、より踏み込んだフォークナーとの共鳴、っていうものを口にしてみせるわけですね。そんな感じ。

ともあれそんな──要するに先ほどのメールにもあった通り──「持たざる者」として再設定された主人公イ・ジョンス。で、彼が「小説家志望」と言いながら、一向に小説を書いてる様子がない。後半では「世界のことがよくわからなくて、何を書くべきかわからない」とまで告白している。ここも非常に大きなポイントだと思います。ちなみにこの部分、NHKで放映された50分の短縮版ではですね、なんと劇場版に入ってない描写が、テレビ版では足されている。「パソコンに向かうが何も書き出せない」という、劇場版からはカットされた描写が、このNHK版にはあるんですね。この違いの意味するところは何か、ということについては後ほど、話したいと思いますが。

 

■序盤から周到に、ひっそりと張られた伏線

とにかくそんな彼がですね、街中でふと、幼馴染……だと言っている、セクシーな美女ヘミさんと出会うわけですね。これを演じる新人のチョン・ジョンソさん。非常に色っぽいし、なんていうか、しなやかな自由さと儚さ、危うさみたいなのをたたえた、表情とか、あと目線の使い方も非常に上手いですし。あと、彼女の身のこなしの美しさですね。全てが本当に素晴らしいんですけども。ちなみに、彼女が最初に働いている……なに? セール会場? なんなの、あれ?(笑) あれ、ちょっと韓国にしかない風俗で、ちょっとよくわかんないんですけど。女の人が踊っていて。あれのなんか安っぽさのいかにも感とかも、ちょっと笑っちゃうんだけど。

ただし、いかにもこう何気ない感じで、どうってことない感じで始まるんですけど、無造作に始まるんですけど、ここでのやり取りがすでに、終盤の重大な伏線になってますよね。これ、イ・チャンドンは油断しちゃいけない、っていうあたりですね。はっきり言って序盤、伏線張られまくりですからね。で、そこから彼女が語る……たとえば、酒を飲みながらパントマイム論を語りますね。「そこに何かが“ない”ということを忘れればいい。それがパントマイムのコツだ」なんていうことを言う。これ、原作にも出てくる重要なキーワードですけども。

それに加えて、イ・チャンドン版にはこんな描写もあったりする。彼女の部屋の中に……「日が当たらない部屋だ」って言ってるんですけども、「1日のうち一瞬だけ、あそこの展望タワーから反射した光が、一瞬だけ差し込むの。一瞬だけだけどね」っていう。そしてまあ、セックスしながら主人公は、その差し込む光……彼女の顔というよりは、差し込む光の方を見ている、という場面。これ、イ・チャンドンの過去作を見ている方だったら、『オアシス』の壁に映じる光と影の感じであるとか、あるいは『シークレット・サンシャイン』のラストカットなどを連想される方も多いと思いますが。

とにかくその、あまりにも儚い、なんというか、希望の予感、の名残り……の・ようなものが、でも、みるみるうちに消えていってしまうという、その哀しさ、不吉さみたいな感じ。その部屋でですね、いるはずなのに姿を見せない猫。しかも、この猫の名前が終盤、再び口に出されたあの瞬間の、息を飲むようなスリリングさ。「ボイル。ボイル……」。その時の、「うわっ!」って息を飲むスリリングさときたら、という感じですけども。

とにかくこの序盤、主人公のイ・ジョンスとヘミとのやり取りの中にすでに、こういうことですね。メインテーマ、「目には見えないが、たしかに存在する……ように感じられるもの」、その輪郭を、手探りで探りあてていくかのような、この不思議な寓話のコアに迫るヒントが、この序盤の時点で、映画の隅々にまで配置されている。もう本当に、油断をしないで見ていただきたい。で、観客はその「ああ、実は序盤からもうその話をしてたんだ!」っていうことに、後から気づくことになる、ということなんですけどね。

 

■“持たざる者”ジョンスの切なさ

で、そこに……まあ、この2人だけだったらね、まあまあお似合いのカップルというか……お似合いなのか?(笑) わかんないけど。まあ、若い貧しいカップルが都会の片隅で身を寄せ合って、という小さな恋の物語、っていう感じなんだけど。そこに、謎のリッチな青年ベンが登場することで、物語は一気に不穏な、三角関係の緊張感を漂わせ始めるわけですね。

このベンを演じているのが、スティーブン・ユァンさん。『ウォーキング・デッド』の、グレンっていう非常にナイスガイね……なんですけども、最終的にジェフリー・ディーン・モーガン演じるニーガンにね、ひどい目にあわされてしまうあのグレン。で、非常にナイスガイ役で売り出した人なんだけど、今回は打って変わって、一見ナイスガイなんだけど、目が全く笑っていない!という見事な演技でしたけども。

これ、イ・チャンドンのインタビューによると、やっぱり彼、スティーブン・ユァンさんはアメリカで生まれ育ってますから、韓国語が本来堪能ではない。要するにネイティブではない。で、非常に訓練して見事な韓国語をしゃべるんだけど、ちょっとだけ残る不自然さがある。これがこのベン役のミステリアスさに合っている、ということなんですよね。これは僕、そこまで韓国語のイントネーションとかわからないんで、言われてみると「ああ、そうなんだ」っていう感じなんですけども。

とにかくこのベンさん、人当たりはいいが、やはりどこか胡散臭いというね。たとえば、最初に行くホルモン鍋屋での、「泣いたことない」発言。しかも、これが面白いんですよね。「涙っていう証拠がないから、自分が悲しいという感情を抱いているかどうか分からない」。つまり、さっきから言っていることの逆なわけですね。「目に見えないけど、たしかにそこに存在するもの」っていうのを信じようとしてるヘミとか小説家志望のジョンスに対して、たぶん彼は目に見えるもの、実利しか信じていない、っていう感じがこの発言からする。

さらにそこに、後輩らしき人物が「やあ!」って。「空港からね、ゆっくりついてくるのが一苦労でしたよ、ハッハッ!」とかなんとか言ってやってくる。ポルシェでわざわざつけてこさせて、ジョンスのボロトラックに追いつかせて……ちなみにジョンスのボロトラックっていうのは、席の後ろになんか、変なボツボツ(状のシートカバー)がついていて(笑)──ああいう生活感の出し方、本当にイ・チャンドンは上手いですけども。とにかくなんか信用ならない。なんか変な人だなっていう感じがする。

一方でジョンスはですね、「あっ、この人なに、ポルシェなの?」って、そのポルシェを前に気後れして、ちょっと卑屈な笑みを浮かべながら、本当は好きなヘミに、「あ、うん。送ってもらいなよ」って言っちゃう。あそこでですね、ヘミは、アップとかにはならないんですけども、何度も何度もジョンスの方を振り返るんですよ。「これでいいの? これでいいの?」っていう感じで振り返る。あそこも本当に切ないんですけどね。

まあ、かようにですね、後に姿を消すことになるこの女性キャラクターへの思いっていうのが、はっきりと打ち出されているあたりが、原作との非常に大きな違いですよね。で、このあたりまではまだ、持たざる若者の青春物語、といった塩梅なんですけども。中盤、そのジョンスの実家の庭先で、マイルス・デイヴィス『死刑台のエレベーター』に合わせて、上半身裸になったそのヘミがですね、マジックアワーの夕闇と……それこそやはり曖昧な、光と影のあわいの中で、“グレートハンガー”、つまり「人生の意味を探す者」のごとく踊る、という本作屈指の名シーン。

 

■終盤、ついにジョンスが書きだした「何か」とは?

その直後にですね……まあこの、長回しの名シーンの直後。ベンがですね、ビニールハウスを──今回はビニールハウスという風に置き換えられている、そのビニールハウスを燃やす、という不気味な性癖を語りだし、それとシンクロするかのように、ヘミが忽然と姿を消してしまう、というね。ヘミとの別れがあんな風だっただけに、これがまた切ないわけですけども。とにかくそれ以降、物語は急速に、はっきりとノワールになっていきます。ノワール的な色合いを深めていく。特に今回の『劇場版』では、原作小説よりもずっとはっきり、その謎の金持ち青年ベンのビニールハウスを焼くという趣味、っていうのがつまり、名もなき人を消す行為……つまり殺人のメタファーなのではないか、ということを非常に明確に暗示している、っていう感じですね。

明らかにベンはちょっと……実際にスティーブン・ユァンさんも、ニーチェとかを今回の役のために読み込んで。「ニーチェの超人思想とかにきっとかぶれているやつに違いない」みたいなことを(インタビューで)言っていますけども。たとえば、失踪直前にかかってきたヘミからの電話。明らかに何らかの事件性を感じさせる音がする。これも原作には全くないアレンジですし。ベンの行動も、全てが怪しい!という方向に、演出、描写の全てが「誘導」してくるわけですね。たとえばこれは『劇場版』のみの描写ですけども、なぜかあの田舎の、ダムの前に佇むベン。そこにですね、また演出で意地悪にも、ハエの羽音を小さく重ねるんですね。「プーン……」って。つまり、死の匂いをさせている。

この手前の車での尾行シーンとかですね、これは『シークレット・サンシャイン』の身代金を持っていくシーンとかでも思ったんですけど、イ・チャンドンは車を使った……というか車内視点からのサスペンス演出が、めちゃくちゃ上手いです。手練れですね(※宇多丸補足:念のため付け加えておくなら、この一連の尾行シークエンス、スポーツジムでのベンの表情などに露骨に暗示されてますけど、ベン側もジョンスにつけられていることを半ば承知のうえで行動しているようでもあるあたりがまた、さらに不気味さを増していますよね。)あるいはそのベンの、二度ある「あくびをしてからの、愛想笑い」。あれのやっぱり酷薄な感じであるとかですね。そして最も決定的なのは、これも『劇場版』のみの描写ですけども、序盤と中盤にさりげなく登場したあるアイテムと、やはり猫。これが決定的に……要するに映画演出的には非常に周到に、「ああ、ベン。これは絶対にクロでしょ?」っていう風に印象づけられるように、方向づけられている。

ところが、ここがすごいところなんですけども、客観的には全てがぼんやりとした、状況証拠以下のものでしかないんですよ、全て。(どれだけベンが怪しく見えても、ジョンスには)なにかができるわけじゃない、というバランスになっている。そこで主人公のジョンスが取る行動は……っていうところで、ついに彼は、自ら、何かを書き始める。小説なのかはわかりませんけども、「何か」を書き始める。「目には見えないがたしかに存在する/した何か」。たしかにいたはずのヘミ……その輪郭を、手探りでたしかめるかのように、何かを書き始める。そして、短縮版、NHK放映版はここで終わっているわけです。さっき言ったように、ジョンスがついに自分の物語を書くことに到達するという、そのプロセスの方をNHK放映版は強調しているわけです。

対して今回の『劇場版』は、そこをあえて、さらに曖昧にしてるわけですね。「最初は書けなかった人が、書けるまでの話ですよ」っていうのを、あえてちょっと分かりづらくしてる。つまり、ジョンスが何かを猛然と書き始めた。その後に続くシーンの解釈を、よりオープンなものにしてるっていうことですね。で、ここからが──あくまでも僕の解釈です。ジョンスが、ヘミの部屋でパソコンに向かって、何かを書いている。カメラがグーッと引いていきますね。外側から見て。そして街の遠景を映し出します。つまり、「ここに無数の物語が眠っているんだよ」というように、街の遠景を映しだします。

 

■余韻が永遠に持続する、いくつもの解釈可能なラスト。やはり、段違い!

ここから突然、ベンの視点に、いきなり劇場版ではスライドしますね。音楽のトーンもここから変わります。つまり僕は、これはやはり明らかに、「ここから先は主人公のジョンスが書いているものですよ」っていう演出に、はっきり見えると思います。僕の解釈ですよ? ベンが洗面所の中にしまっているあの化粧箱。あれっていうのは、父親がコレクションしていた金庫の中のナイフと対になっていますね。つまり、持たざる者ジョンスにとっては、妬みの、怒りの対象でもある。ベンがね。しかし同時に、このエンディングのエピソードの中でベンは、「あれ? ヘミは来てないの?」なんてことを口走ってもいて。要は殺人疑惑に関しては、明らかに彼は無実なわけですよ。このエンディングのエピソードの中では。

つまりジョンス自身が、この怒りとか妬みとかっていうのは、八つ当たりでしかないことが分かってる。つまり「敵の見えない時代」っていうのを表現してる。そして、父親のため込んできた怒り、前の世代がため込んできた怒りとか暴力性を、結局自分も引き継いでしまっているのではないか?っていうことも自覚している、っていう描写とも言える。だからこそ、その全てを振り払うかのように、全部燃やしてしまおうとするんだけど、そもそも何かを燃やそうとする行為そのものが、ベン的であり、父親的であり……やはり、何かから逃れられたわけではないように見える。

しかし、以上を客観的に書くことができた、ということこそが、ジョンスの救いであり、成長だったのか……? という。これが僕のラストの解釈、という感じですね。もちろん監督自身、(ラストの)解釈というのはそれぞれに、とおっしゃっています。とにかくひとつ言えるのは、ミステリーというよりはノワール。つまり解決しない、わからないまま全てが終わる。気味悪さ、余韻が永遠に持続する作りでもある。あえて言えば、原作小説の読後感のその先を描いた……あるいは『納屋を焼く』という村上春樹の1983年の原作小説を、『アンダーグラウンド』以降の村上春樹的な、“踏み込むスタンス”で再解釈してみせた、とも言える。

あるいは、フォークナーの『納屋は燃える』までいったん遡った上で、現代韓国社会とのシンクロをもう1回見出してみせた、見事なアダプテーションとも言える。とにかく、複数の複雑な読みを可能にするイ・チャンドン。結論はやはり、段違いだと思います。ぜひぜひこの、いまにふさわしい大傑作を、劇場で目撃してください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は『ファースト・マン』に決定!)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

++++++++++++++++++++++++++++++