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宇多丸、『トイ・ストーリー4』を語る!【映画評書き起こし 2019.7.19放送】

アフター6ジャンクション

 

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』内の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞、生放送で20分以上にわたって評論します。今週評論した映画は、『トイ・ストーリー4』(2019年7月12日公開)。その全文書き起こしを掲載します。オンエア音声アーカイブはこちら↓

宇多丸:
さあ、ここからは私、宇多丸がランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのはこちらの作品、『トイ・ストーリー4』。はい、おなじみのテーマ曲ですね。おもちゃの世界を描いたピクサーアニメーションの大ヒットシリーズ『トイ・ストーリー』の9年ぶりの続編。親友アンディと別れを告げ、新たな持ち主ボニーの下で暮らしていたウッディたちの前に、ボニーが作ったおもちゃ「フォーキー」が現れる。自分をゴミだと思い込むフォーキーが……まあ「思い込む」っていうか、本質的にゴミではあるんだけども(笑)。彼が旅先で姿を消してしまったことから、ウッディたちの新たな冒険が始まる。

トム・ハンクス、ティム・アレンなどがおもちゃたちの声を演じる。監督は数々のピクサー作品に参加し、今回が長編監督デビューとなるジョシュ・クーリーさん、ということでございます。ということで、この『トイ・ストーリー4』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>のからの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、とても多いということで。どっさり、ドスンと来ていますね。分厚い。

多くの方が、完璧なパート3の後の続編ということで期待半分、不安半分で臨んだ様子。そして賛否の比率は、「賛が半分」。両論併記(いいところも悪いところもある)が3割、よくなかったという方が2割。評価がかなり分かれています。ちなみにね、日本だとすごい賛否両論なんだけど、アメリカ本国だと、わりと評論も観客も絶賛一辺倒で。賛否両論っていうのは、日本観客のちょっと傾向だったりするんですけどね。

で、擁護派のご意見。「3のラストのさらにその先を描いたところにピクサーの凄みを感じた。まさかウッディのストーリーだったとは!」「ラストの彼の決断に感動した」「ギャグのキレもいいし、映像表現の進化にも驚いた」といったところ。否定的な意見としては、「これまでのシリーズを全否定された気分で悲しい」「バズの扱いに不満。1のバスに戻ってしまった」なんていう。これもありますね。「ラストのウッディの決断を見て、これからおもちゃをどう扱っていいのか、戸惑ってしまった」。まあ、これはいままでもそうなんだけどというね。また『トイ・ストーリー』の感想は、他のどの作品より“『トイ・ストーリー』とともに育ってきたので、個人的な思い入れが強い”という意見が多いということでございます。

■「これまでで最も魅力的なウッディが描かれた、“ウッディの『トイ・ストーリー』”」(byリスナー)

ということで、代表的なところをご紹介いたしましょう。「モンゴリアンチョップ」さん。「『トイ・ストーリー4』については、“完璧にシリーズを締めた3の続編を作る必要があるのか否か問題”があると思いますが、作ると決めた以上は今回のような展開がベストだと思います。たとえばアンティークショップの倉庫に閉じ込められているボーをウッディたちが助けに行くというような、これまでの『トイ・ストーリー』で何度も何度も見てきたような展開なら4を作る必要なんてなかったです。短編集でやればいい話です。

物語中盤、ウッディがフォーキーを助けるために他のおもちゃを危険に巻き込んだ行動を批難された際に、『俺にはこれしかないんだよ!』と言い放ったセリフが胸に突き刺さって涙が止まりませんでした。これまでのウッディであれば『仲間のためだろ』とか『俺たちが助けないと』とか、そういったおもちゃたちのリーダーで頼れる保安官のような優等生的なセリフを言ったのではないでしょうか?

ウッディが仲間のことを助けるために行動していることが、実は自分の存在意義を証明するための行動であったということ。それをウッディも自覚していることに胸が締め付けられる思いでした。シリーズのどの作品よりもウッディが悩み、そして成長し、自分のアイデンティティーについて考えた作品だと思います。これまでで最も魅力的なウッディが描かれた、まさに“ウッディの『トイ・ストーリー』”だという本当に最高な映画でした」というモンゴリアンチョップさん。

一方ですね、ダメだったという方。「リキ」さん。「私は子供の頃から『トイ・ストーリー』を見て育ち、おもちゃを大事にすることを学んで育ちました」というような方ですね。で、「『トイ・ストーリー3』が完璧な完結だと思っていただけに、今回の『トイ・ストーリー4』は見たいような見たくないような複雑な気持ちで臨みました。結論から言うと、『これならいらなかったかな』という感じです。

今回はおもちゃを“ひとつの意思を持った生命”と見るか、ただ“おもちゃに意思があるだけ”と見るかでだいぶ感じ方が変わるような気がしました。自分は完全に後者の感覚でいままでの作品を見てきたので、今回出てきた“野良おもちゃ”のような概念が理解できなく、『そもそもおもちゃって誰かに遊んでもらって存在を定義できるんじゃないの?』と思うのです。だからウッディが最後に取った選択も、いままで子供の幸せを何よりに考えてきた彼の行動からはちょっとズレてるかなと思いました。

映画的にも、見せ場のための場面設定が多く、それぞれのシチュエーションの位置関係も分かりにくかったです。古参キャラや前作で加わったボニーのおもちゃの扱いも軽く薄っぺらい描写でした。まあどれも、“オレが考える『トイ・ストーリー』と違う”レベルのことですが、個人的にはしっくりきていないです」ということでございました。まあね、思い入れが強いシリーズほど、っていうのは当然ね、生じる問題ではあると思うんですけどね。

■「幸せとはなにか?」を問い続けてきた『トイ・ストーリー』シリーズ

はい。ということでみなさん、ありがとうございます。『トイ・ストーリー4』、私も、バルト9で字幕2Dと吹き替え2Dを連続でね、9階から6階に降りてぶっ続けで見るというのと、あとはTOHOシネマズ六本木で字幕2D、計3回見てまいりました。これね、面白かったのはバルト9、どっちも深夜回で見たんだけど、より深い時間帯の回であるはずの吹き替え回の方が、入ってたんですよね。これはまあ深夜のね、新宿っていう土地柄もあるのかもしれないですけどね。これは面白いなという風に思いました。

ということで『トイ・ストーリー3』、僕は前の番組の時代、2010年7月17日、ちょうど9年前に評しましたが。多くの方もおっしゃる通り、その『トイ・ストーリー3』がですね、シリーズのひとまずの締めくくりとして、これ以上考えられないほどきれいに、見事に終わっていた、幕を引ききっていた。そういう風に私も評して、絶賛しました。で、あまりにその幕引きが鮮やかだったので、僕などは、『トイ・ストーリー3』以降のスピンオフ短編も、ちょっと許せない、っていう風にいつも思ってたくらいで。要は「あの3の後の、中途半端なおもしろ話とかは見たくないから!」ぐらいに思っていたぐらい、3は見事だと思います。

当時のはまだ、書き起こしとか残っていないんでね。まあ、どこかに残っているアレをアレしていただいても全然結構ですけどもね。参照してください。『トイ・ストーリー』シリーズの歴史と位置付け、とかもやってます。ただ今回の『トイ・ストーリー4』はですね、長編で、正式ナンバリング作品ということで、そんな軽い感じでつくられた作品ではもちろんないわけです。そもそもこの『トイ・ストーリー』シリーズ、一貫して描かれていたのはこういうことですね……実は生命、感情を持っているおもちゃたちにとっての、「いつ持ち主に飽きられて捨てられるかわからない、という恐怖」と、そんな本質的に寄る辺ない存在にとっての「幸せ」ってじゃあ、何なのか? という問い。これを一作ごとに、その恐怖と問いっていうのを、より徹底して突き詰めていく、という、こういう作りになってる。

これはもちろん、現実の人間社会における諸々の問題に置き換えて考えてみることができる、その象徴的に解釈することができる、っていうことにも多分になっていて。たとえば、特に実質上の主人公であるウッディの視点から見ると、これは「子離れ」の話ですよね。親がどうやって子離れするか、っていうような話としても見えるし。一作目のバズであれば、要は自分の身の程を知った上で、それでもその中でささやかな自己実現はできるよ、っていう、まあ非常にオトナなメッセージというか。その意味で、被雇用者、「仕事」全般論、みたいな感じでも捉えることもできるし。

もちろんぶっちゃけこれ、『トイ・ストーリー』における持ち主とおもちゃの関係は、「主人と奴隷」というかね、奴隷制みたいなものもどうしても思い起こさせるような関係……そういうメタファーにもどうしても見えてしまう、ところも多々あったりするという。まあとにかく、それら全部をまとめて、こういうことだと思うんですよ……「自分が帰属する場所」と、「誰かから必要とされること」がなくなったら、どうしよう?っていう、まあやはりわりと普遍的な、誰でもコミット、共感しうる恐怖とか不安。そして、それに対する問い、っていう……「じゃあ、どういうことが幸せなのか?」っていう問いをテーマにしてきている、ということは間違いない。

■「3」のあとでもウッディの話なら続けられる、そして「究極の問い」も残っている

で、特にその『トイ・ストーリー3』ではですね、その帰属する場所も、誰からも必要とされることもなくなったモノたちが、いずれ最終的にかならず行きつくであろう場所としての、ゴミ焼却場という……つまりその、いずれ誰もに訪れる<死>の光景、っていうところまで見せたわけですね。本当に恐ろしい場面でしたけど。その上で、少なくとも主人公たちには、再び帰属する場所と、誰かから求められるっていううことを……世代を超えてそれが継承されうるんだよ、っていうのを示す。僕はディズニーで言うと、『小さな家』っていうお話、知っていますか? 『小さな家』に近い感じだな、って思ったんですけどもね。

とにかくそういう風に、ひとまず全て丸く収まって、めでたしめでたし、なところに着地してみせたわけですよね。さっき言ったように本当に完璧な……一作目とちょうど円環構造も成しているし、ああ、見事!っていう感じで幕を閉じたんです。ただ、実はその3を作っている最中からですね、一作目から原案・脚本を手がけてるアンドリュー・スタントンさん。ピクサーの中の、トップ中のトップですね。アンドリュー・スタントンさんの中では、3が完結編というつもりは、つくっている最中からなかった、という。

たしかにアンディ……ウッディの持ち主だった少年とウッディとの物語は3で終わりなんだけども、ウッディの話はまだ続けられる、そのアイデアがある、という風に考えていたそうなんですね。で、今回監督に抜擢されたジョシュ・クーリーさんもあちこちのインタビューで語っているのは、「3の後、どうするんだ?」って思ったんだけど、そのアンドリュー・スタントンさんのアイデアを聞いて、「ああなるほど、って思った」という。

で、とはいえ当初は、これも監督のジョシュ・クーリーさんの、たとえば日本語で読める記事だとロケットニュースのインタビューで、こんなことを言ってるんですけど。要は当初は、ウッディと、今回非常に重要な役割を果たす、ボー・ピープという、二作目まで出てたあの女性のランプの飾り人形ですね、彼と彼女のロマンティック・コメディー、っていうところまでは決まってたけど、どういう結末にするかはしばらく決まってなかった、なんてことらしいですね。結構僕、これは意外だったんですけども。

なんだけど、おそらくはそのボーというキャラクターを、現代にふさわしい自立した女性キャラクターとして再創造していくうちに、再造型していくうちに……実際に技術の向上込みで、ぶっちゃけ彼女の見た目自体、1や2とはかなり、ちょっとかけ離れたぐらい変わってるんですけど。まあ、その彼女をいまにふさわしいキャラクターに造型していくうちに、必然的に作り手たちは、このシリーズが実は3でさえもあえて踏み込まなかった、ある究極の問いについに向き合わざるを得なくなったらっていうことだと思うんですね。

その究極の問いとは何かといえば、「自由意志」の問題ですね。はい。

■アンディという物語上の安全ネットがない「4」では……

ちょっとこれ、後ほどいいますけども。実はこの作品、その自由意志の問題と、本当に最後の最後にさらに、「それを言っちゃあおしまいよ」な問いまで言ってしまう。ゆえに、たぶん「この後」はもうないはずだけどな……と思わせるようなところまで行ってしまうんですが、これはちょっと置いておきましょう。

ちょっと順を追って話していきますけど。まず「9年前」という風にテロップが出て、夜の豪雨の中、泥水の濁流に流されかけるRCっていうね、ラジコンの車、RCをみんなで救出する、というくだりがある。

95年の一作目、99年のニ作目はもちろん、2010年の三作目、あれを見た時も「うわー、技術進化した!」ってびっくりしましたけど、あの時と比べてもさらに、驚異的に向上した自然現象とか、あと物の素材感、質感含む、そのリアルな「世界」表現。「世界」の表現ですね。で、今回もまたこの技術向上が、物語とかテーマに、密接につながっている。3もそうだったですよね。

要するに、質感表現が進んだから、「古ぼけたおもちゃ」っていうのの表現が、物語とすごく一致していたわけですけど。今回もすごく「世界」の表現がリアルだってことが、この4の話と非常に密接に……要するに、この技術がなければこの4の話は語れなかった、っていう感じなんですけど。とにかくその中で、3ではセリフでのみ語られていた、ボーというその女性の人形との別れ、というのが描かれるわけですよ。ウッディとはいい仲、恋仲にあったわけですけども。今生の別れ、みたいな感じでね、あるわけですけども。

ここでのこの彼女とのやり取り、および、オープニングタイトル後に本編が始まってからしばらくのくだりが示すもの、っていうのはですね、はっきり言えば、「3がすごい好きだ。3に感動した」っていう人がショックを受けるのも当然なんですけども……「とはいえやっぱり子供は気まぐれだし、変化していくものなので、結局のところおもちゃにとって、永遠の安住の地なんてものは、ない」という、3の終わりからすれば、「ええっ、それ言う?」っていうことでもあり、でも、本当のことではある、という真実ですよね。

考えてみれば、3まではですね、とはいえアンディという、ややと言うか、かなり理想化された持ち主とウッディとの、物語上決して壊れない絆っていう安全ネットが、最終的には全てを回収してくれていたからこそ、我々は安心して見終えられたわけですよ。でも、もう本作では、それはないわけですよね。なので、それがなくなった後のウッディはどうかというと、本作では……すいません。今日、それなりにちょっと本編の本質に触れるんで、毎度言いますけども、絶対に何も(情報を初見前に)入れたくない人はちょっと、はい、20分近く、よろしくお願いします、ミュートなりなんなり、してください。

■ゴミから生まれたオモチャ「フォーキー」が突きつけてくる「居心地の悪い問題提起」とは?

本作で、もうアンディとの関係は終わっているそのウッディは、実際のところ、劇中で「心から彼のことを思う持ち主に愛される」っていう場面は、ついに1回もない、っていうことになっちゃっているわけです。これは非常にショッキングですよね。それでも彼は、要するに直接誰かに求められことがなくても、裏方的サポートに……「勝手に」ですけどね。勝手に動き回ることで、なんとか己の存在意義を、自分の中で保とうとしている。

これ、現実にも全然置き換えられる話ですよね。非常に身につまされる話というか、現実にも置き換えられる立場であり心情だと。で、そこでいかにもそのボニーという女の子らしい、非常に想像力豊かな子なので、いかにもボニーらしい想像力で自ら作り出してしまう、本シリーズ初の手製おもちゃ、フォーキーっていうのが出てくるわけですけど。彼はまあ自分を「ゴミ(Trash)」と認識しているので、「君はおもちゃだ。Toyなんだ!」って言われて……これ、要するに日本語吹き替え版だとちょっとそこが難しくなっていましたけど。

要するに「Toyでしょう?」「T.T.T…Trash!」みたいな。そういう風になって、ゴミ箱に突進するっていう。それでウッディがいちいちそれをボニーのために止める、という、情緒不安定ギャグと言いましょうか、それが序盤のメインとなるわけなんですけど。要はこのフォーキーの登場によってですね、この世界のおもちゃにおける「生きているおもちゃ」と、そうでない物質の差って何だ?っていう、結構根源的疑問が改めて浮上してきて。まあ、さっき言ったラストのラストでの「それを言っちゃあおしまいよ」な問いは、ある意味それに対するセルフツッコミでもあるわけですけど。

で、その「えっ、これって何?」っていう、そこが気になって(お話に集中できない)、っていう人もそれなりにいてもおかしくないな、っていうフォーキーという存在なんですが。ただひとつ言えるのは、3で、さっき言ったように「全てのおもちゃがいずれゴミになりうる」っていうのを示した後に、その反転として「だとしたら、ゴミもおもちゃになりうる……のか?」っていうこのフォーキーというキャラクターによって、「おもちゃとゴミは紙一重、というか、そんなのは見る人の価値観によって変わる」という……これはですね、『トイ・ストーリー』という物語世界にとって、大変居心地の悪い問題提起をしてくるわけですね。

ウッディは、2で語られていた通り、アンティーク的観点から見れば、実は非常に価値ある存在。でありながら、いまはおもちゃとしては価値が落ち込んでる状態。一方フォーキーは、ボニーのおもちゃとしての価値以外は、何もない。でも、ウッディにしてみればそれこそがいちばんほしいものである、という。要するに、完全に対称の存在なわけですよね。まあ、この設定は非常に面白いんです。

なんですが、まあぶっちゃけフォーキーに関するストーリーは、彼がボニーに対する思い入れを得た時点で、まあ終わってしまう、というのもあります。そんな感もあるんだけど、ただ彼の存在が……彼が出てくると常に、この世界の根源的な寄る辺なさっていうか、「えっ、なんだ? こいつらはなんだ?」っていう、非常に居心地悪さというものを醸し出すキャラクターなのは間違いない。まあ、子供観客たちは、すごい大好きらしいんですけどね。

 

■ヒロイン「ボー」の肌の陶磁器表現は、彼女の強さを印象づける

で、そのフォーキーの話が一区切りするのと入れ替わりに登場するのが、まずアンティークショップ、その名も「セカンドチャンス」。まずこのセカンドチャンスの中に(ウッディが)引き込まれていくところの、あの照明演出。今回もまた3に続いて、灯りの演出が素晴らしいですね。是非みなさん、これは堪能していただきたいですけど。まあそのセカンドチャンスの中の面々……特にやっぱりね、2のプロスペクターとジェシー、あと3のロッツォ、この三者の苦悩と闇をすべて集約したような50年代の女の子人形、ギャビー・ギャビーというね。

それと、それを取り囲む腹話術人形軍団……これ実際に、腹話術人形が登場する時にガラス越しにふっと出るあれ、公式アートブックによると、やっぱり実際のガラスを通して撮った写真とかを撮ってね、やっていたりしていますけども。まあ要はホラー的な演出ね。『シャイニング』+『エクソシスト』と言ってもいいような、そういうホラー演出。ちょっとあと(楳図かずおの)『赤ん坊少女』の切なさも(ギャビー・ギャビーに関しては)入っているね、というようなあたりね。

とにかくこの、アンティークショップ内の美術の美しさを見るだけでも、本当にうっとりするくらいですけど。そのセカンドチャンスの中の連中。そして、通りを挟んだ向かいの移動遊園地。この空間……大きな通りを挟んで、こっち(セカンドチャンス)はすごく静的な、古いものがずっとちんまり収まっていて、反対側(の移動遊園地)は、ものすごく生き生きと、若いものがワーッと動いてるような空間。この静と動の対比も、さすがだな、っていう感じですけど。とにかくそこでウッディやバズが出会う連中……わけてもやはり、そもそもこの4の企画の中心にあったという、再登場のボー・ピープさんですね。

1や2では不可能だった、ボーのボディの陶磁器表現。そして、やや近年のディズニー女性キャラの傾向が強い……要は目が大きいんですね、最近のディズニーキャラクターは。まあ、日本アニメの影響もあるのかな? 要するに非常に表情豊かになったという……まあ「前のボーとは全然違うじゃないか!」って言われたらそうなんだけど、というボー。ちなみにコンバットRECの指摘で、「関節が本来動かない人形が関節を動かすのは、あのバービーとケンの例から言っても、おかしいんじゃないのか? ルールが変わってる!」っていう。たしかにそれもそうかもしれない。

ただ、ちょっとそこは置いておいて。要するに、彼女は本来割れやすい、壊れやすい陶磁器でできている、というのが視覚的に常に示されている、ということが非常に大事で。割れやすい、壊れやすいにも関わらず、彼女はこの過酷な、まさに「世界」ですね……さっきから言っているように、土、泥から、あとは骨董品店のあの埃とかまでですね、その技術向上によりリアルに描かれた「世界」の質感。これも非常に効いている。つまりこの生々しい、寄る辺ない、荒々しい世界を、どこにも帰属することなく、また誰にも頼ることなく、まさに独力で生き抜き、生き甲斐を自分で見出しているその強さ、っていうのが、その素材としての脆さ感と相まって、より鮮烈に、内面的な強さとして、切実なものとして(響いてくる)。

つまり、そうじゃないと生き残ってこれなかった、ということとしても際立っているわけですよ。見事だと思うんですね。とにかく僕は、この新生ボーが最高に魅力的で、これはウッディならずとも憧れる!っていう感じだと思います。

■4が徹底的に突き詰める「オモチャの幸せとは?」という問いかけは、『トイ・ストーリー』の臨界点もあぶり出す

あとね、あのギグルっていう、ああいう超小さいコンパクト型のドールハウスおもちゃ、たしかにあった!っていうあのギグルとの、女同士バディ感とか。あと、キアヌ・リーブスがボンクラ性全開で演じる、あのイーブル・クニーブル風のスタントマンのおもちゃ……あれ、実際僕はああいうおもちゃ、仮面ライダーに置き換えたやつを持ってましたけども。

それとか、あとはあのG.I.ジョー風コンバット・カールの、特にあの白い服着たあいつ、彼の切なさ(笑)。これ、公式アートブックでも、イメージボードの段階から、彼のあれがスカる、というのが書かれてます。ただこれ、彼に関しては、エンドロール、最後までぜひ見てやってくださいね。で、もちろんダッキー&バニーの、あの口悪い漫才コンビっぷりもね……そんな感じで特に新サブキャラたちが、小ネタを含めて非常に楽しいわけですが、たしかにその分、元々のおなじみのメンバーが後景化してしまった感はあって、たしかにそれに不満を抱くファンがいるのもわかる。

特にバズは、「いちいち“心の声”に従う」っていうのが、一作目の最初の方的なキャラに戻っちゃっているじゃないか、っていうこの不満はよくわかります。ただ、もちろんその「心の声」っていうのはですね、ギャグとしてだけではなく、その問題のラスト……ここも、照明演出がすごくよくできてるんですけども、問題のラストを含め、実はやっぱりこの本作のメインテーマと、深くかかわってくるワードでもある。つまり「心の声」っていうのは、言い換えればやっぱり、「意思」なんですよね。さっきも言った、おもちゃたちの意思の問題。あんたらは「本当には」どうしたいんだ?っていう話にかかわってくる。

3までは、とはいえおもちゃにとっての真の幸せとは、やはり子供と遊ぶ……じゃなくて、子供に遊んで「もらう」ことだ、っていうのが絶対不変の真理としてあったんです。で、そこが疑われてもいないからこそ、2ではそれを……僕は大嫌いな結末でしたが、博物館でずっと大切にされたいという、それはそれで切実なプロスペクターというあの悪役の意思を、間違ったものと決めつけて、ウッディたちは「正しいこと」をガッと押しつけますよね。おそらく、作り手たちもこの「プロスペクター問題」というのは気になっていたはずで……ともあれ「よい持ち主」に会えないと、おもちゃにとっては毎日が地獄、っていうこともありうるっていうのを、3で示して見せた。

で、今回の4はそこからさらに進んで、「いや、そもそも子供に遊んで“もらう”ことだけが幸せなのか? どこかに帰属しなくても、誰かに求められなくても、自分で自分の生き甲斐を見つけ出し、作り出す、という選択肢が生き方としてあっても、いいんじゃないか?」っていう、ここまで問いを突き詰めてみせる。で、「自分で自分の幸せを作り出せばいいじゃないか」っていうこれは、まさにフォーキーに関してボニーがやったこと、でもあるわけですよね。で、もちろんこれは我々の実人生にもフィードバックしうる、本当の「セカンドライフ論」にもなってるわけですよ。

しかし、それは同時に、この『トイ・ストーリー』という物語の、臨界点でもあって。おもちゃたちが意思を持って、本当に自由に生き始めたら……それはもう「おもちゃ」ではなく、人間社会の裏側で密かに蠢く、「もうひとつのヒト的なるもの」ですよね。『妖怪人間ベム』的なものですよ。だから、これまでのシリーズと違って、月夜で終わる、というのはそういうニュアンス。非常に不穏な余韻を残す。実際にエンドクレジットで行われているのは、闇の奴隷解放人みたいな、そういうことですよね。

■居心地が悪いからこそ価値がある、これぞ『トイ・ストーリー』! これぞピクサー!

ということで、さらにそのミッドエンディングで、シリーズの根源的な、「それを言っちゃあおしまいよ」的な問いをして、フッと終わる、っていうことになっている。ちょっと怖くなるような余韻があるな、と僕は思っているんですけども。なので、3の「丸く収まった感」が台無しにされて、嫌だっていう人がいるのもわかる。ただ、考えようによっては、3っていうのは、おもちゃの生き方が……「この煉獄はまだ続く」っていう終わり方でもあるわけです。その煉獄を、さらに断ち切る生き方もあるんじゃないか、というところまで、問いを限界まで突き詰めた一作をつくってからでないと、シリーズが終われない。

だって、3で終わっていればどこからも文句は出なかったんだもん。なのに、そこをつくらずにはいられなかった、というところに、僕はむしろ本来のピクサーらしさ、骨があるな!っていうところを感じます。非常に居心地が悪いからこそ、この4には価値がある、という風に思っています。僕個人は、やっぱりこれこそが『トイ・ストーリー』であり、これこそがピクサーだ、っていう風に思う一作でもありました。

もちろんね、その不満点がある、という部分もわかりつつ、ということでございます。まあ好き嫌いも含めてですね、ぜひぜひジャッジはみなさん、ご自分の目で、劇場でウォッチしてください!

(ガチャ回しパート中略 ~ 来週の課題映画は、1万円払って一度は回避した、『天気の子』です)

 

 

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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