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宇多丸、『天気の子』を語る!【映画評書き起こし 2019.7.26放送】

アフター6ジャンクション

 

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』の看板コーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。ライムスター宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞し、生放送で評論します。今週評論した映画は、『天気の子』(2019年7月19日公開)。オンエア音声はこちら↓

宇多丸:

さあ、ここからは私、宇多丸がランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞して評論する週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのはこの作品、『天気の子』。2016年の『君の名は。』が記録的大ヒットとなった新海誠監督の最新アニメーション映画。連日雨が降り続ける東京にやってきた高校生の帆高はある日、祈ることで天気を晴れにできる能力を持つ少女・陽菜と出会う。その出会いが2人の運命を変えていくこととなる。

声の出演は、醍醐虎汰朗さん、森七菜さん。そして小栗旬さん、本田翼さん、などでございます。音楽は『君の名は。』に続きロックバンド、RADWIMPSでございます。後ろでいまね、鳴っておりますね。ちょっと後でも言いますが、前作以上に非常に密なというか、コラボレーションという感じで出来上がったみたいですけどね。

さあ、ということで、この『天気の子』をもう見たよというリスナーのみなさま、<ウォッチメン>のからの監視報告(感想)をメールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「今年最多クラス」! そうですよね、やっぱりね、これは。で、賛否の比率はですね、賛が4割、賛否両論併記が4割、否定が2割。かなり割れている状況でございます。ただしいちばん多かったのは、「画面はいいけど、お話はご都合主義だし……」とか、「自分がもっと若かったら好きだったかも……」と、割り切れないモヤッとした気持ちになったという人がわりと多かった。あと、やはり男性からのメールが圧倒的に多かった、ということでございます。

褒めている人の主な意見は、「ラストの展開に感動。振り切った結末だが、自分は支持する」「画面の美しさや音楽の使い方でとにかく泣かされた」などなどがございました。また、「セカイ系」と呼ばれるコンテンツ……まあ厳密な定義はいろいろとありますけども、まあセカイ系と呼ばれる新海さんの作品群のようなコンテンツを思春期に楽しんだ現在アラサー世代のファンが、「新海監督はセカイ系を更新した!」と絶賛してる声も目立った、ということでございます。

そして、否定的な意見としては、「ラストで興ざめ。全く感情移入できない」とか「幼稚。あまりにご都合主義的な展開に興ざめ」というようなご意見がございました。

■「抽象的な『セカイ』ではなく、私たちの住む『東京』に置き換え、改めてセカイ系を語り直す」(byリスナー)

代表的なところをご紹介しましょう。「松竹梅03」さん。「『天気の子』を鑑賞してきました。相変わらず超絶美術とたまらん音楽で暴力的なまでに泣かされてしまったのですが、6歳下の弟と話してるうちに面白い世代ギャップのようなものが見つかったので報告したくなった次第です。

かくいう僕は、今年30歳で、高校・大学と多感な時期に新海さんの作品を見て育った直撃世代です。特に意見が分かれたのが新海さん自身が『賛否両論ある』と言っていたラストです。詳しくはネタバレになってしまうので書きませんが、『俺が高校生の頃なんて、“僕と君の選択”で世界を滅ぼすような話がいっぱいあったんだから、あれくらい別によくない? あんだけかわいかったらしょうがなくない?』という僕に対して、弟は釈然としていない様子でした。その理由は、『だってあれ、俺の住んでる街だし』。そう言われた時、『よくある話』と油断していた自分が、むしろ今回の話を見えていなかったと気づかされました。

新海さんは、ここで描かれる主人公の少年と少女、帆高と陽菜の物語と、普通の──特に東京に住んでいる人の──暮らしを天秤にかけて、それでも彼らの物語を尊いと思えるか? を真剣に問いかけているのだと思います。そう考えると、おそらく批判も多いだろう異様なまでのタイアップの多さや、身に覚えのありすぎる東京の描写にも納得がいきます」。要するに東京が『リアル』に描かれてるということ。「……あまり批評的なワードを使いたくはないのですが、新海さんがその旗手として注目されたセカイ系――君と僕の物語が世界の命運に直結するタイプの物語――は中間的な要素である国家や組織、普通の人の暮らしが極端に描写されないことをその特徴とされてきました。

そういったセカイ系の弱点を、抽象的なカタカナの『セカイ』ではなく、私たちの住む『東京』に置き換えることで、改めてセカイ系を語り直す、というのが今回の新海さんのやりたかったことではないでしょうか? 人気作家になり、以前ほど自由に作品が作れるわけではなさそうですが、逆にいまの立場だからこその方法ですっかり下火になったセカイ系のテーマを更新してくれた新海さんを、これからも応援し続けたいと思えた作品でした」ということございます。

一方、ダメだったという方。「家財道具百式」さん。「僕はいままでの新海誠作品は本当に好きで、前作『君の名は。』で様々な意見にさらされても好きな気持ちは変わらず、今作公開前に監督自ら『賛否両論ある作品にした』という発言に、『どこでもついていくぜ!』と腕まくりで臨みました。しかし鑑賞後に残るこの気持ちはなんでしょう? おそらく今作における問題は作品のメッセージが、否定されることでようやく成り立つつくりにあると思いました。主人公たちが迎える結論に、『それはないだろう?』と言っても、『いや、それがいいんだ。これこそが私の望むものだ!』と反証することで初めて成り立つ主張のように思えます」。これもなかなか鋭いな。

「……つまり、『最初から否の意見を聞く気なんてないのでは?』と感じるのです。1本通った主張があるのはいいと思いますが、あからさまに否定意見を誘発し、『問題作ですよ』と提示されると少し冷めてしまうかなといった感じでした。メッセージは置いておいても、終盤まで終始挟み込まれる気の抜けたコメディ的なノリや、間に挟まる小ネタのような演出には『慣れないことやらなくてもいいのにな』と感じました」。まあ、ファンならではのね。

「……しかし満員の観客がエンドロール終わりまで立つこともなく、ただ吸い込まれるようにスクリーンを見つめる光景を見ると、なんだかんだでやりたいことが成功してるのかなと思いつつ、どこか寂しいような、やっぱり嬉しいような……。『君の名は。』で記録的メガヒットしたからこそつくれるのは間違いないですし、突き抜けた1本であることもたしかです」。だからまあ、認めつつ、ファンでありつつ、といったあたりでしょうか。

はい。といったあたりでみなさん、メールをドサッとありがとうございます。

■「セカイ系」のにおいを絶妙なチューニングで消臭していた前作『君の名は。』

さあ、私も『天気の子』、バルト9で2回見てまいりました。2回しか見てなくてすいませんね。どちらも深夜終了回だったんで激混みっていうわけじゃないけど、やっぱり若者たちを中心に、まあまあ、深夜にしては入ってたと思います。ということでアニメーション監督、新海誠さん。言わずと知れた前作『君の名は。』。2016年のね、あれがまさしく社会現象的な記録的大ヒットとなったという。で、僕はその『君の名は。』、2016年10月12日。前の番組ウィークエンド・シャッフル時代に評させていただきました。いまも公式の書き起こしが残ってますんで、ぜひ参照してみてください。

その中でも言ったと思うんですけど、新海誠さん、本来はカルト的な作家と言いましょうかね、もともとほとんど独力でキャリアをスタートさせたような方なだけあってですね、非常に強いクセが、明確にある作風。それを一部の熱狂的なファンが支持していく、というですね、今回のメールにもちょっと傾向としてありましたけども、言ってみればミニシアター的な活動スタンスでやってこられた方ではあったんですね。支持層が大きいは大きいんだけど……という。

なんだけど、それが『君の名は。』で、一気に「国民的」と言っていいような爆発的ブレイクを果たすことになった。それはひとえに……これは私の評ですけども、それはひとえに「プロデュース力」「チューニング力」の勝利である、という風に私は評しました。つまり、新海誠作品に、元々内在していたキャッチーな要素、もともと内在していた広い観客層にも強く訴求する要素を、たとえばキャラクターデザインを田中将賀さんに任せて、グッとポップにしたり、とかですね。

これまでにはなかったコメディタッチを大幅に取り入れたりとか。あとはやっぱりその、『転校生』×『時をかける少女』×『サマーウォーズ』的なね、全部乗せ的な、サービス満点展開とか。あとはやはり、RADWIMPSの楽曲を、ほとんど音楽劇的に、というかミュージックビデオ的に作劇に組み込んでいく、とかですね。そういう諸々のチューニングによって、さっき言った「本来持っていたキャッチーな要素」、もともと持っていた要素を、最大限増幅してみせた。で、それが見事にうまくいった、成功した、という作品だという風に、僕は『君の名は。』を評したわけですね。

褒めてますよ、だから僕、めちゃめちゃね。なんか「酷評」とか言われてますけども、全然酷評してないです。すごく褒めてますけど。で、たとえばその、いわゆるセカイ系と呼ばれるような、その赤い糸的な運命で結び付けられた主人公たちの個的な物語が、世界の問題に直結するという話。先ほどのメールにもあった通り。『君の名は。』も、やっぱりそういう話ではあるんだけども。

で、それって見方によっては、もしくは語り方によっては、「独善的」と受け取られかねないところを、『君の名は。』ではですね、そこを上手く……ちゃんとそこに、フォローが入ってるんですね。上手くお話の調節・調整ができていて、あのお話の、独善的ってなりかねないところの臭みをちゃんと抜いてる、っていうあたりも、よくできている。だから、さっき言ったサービス展開全部乗せゆえに、お話的には非常に強引でしたけども、そんなのはつくり手たちも百も承知の上で、実はそういう、絶妙なセカイ系に対するチューニングをこらしている。

やはり川村元気さんのプロデュース力、恐るべし、そしてやっぱり、そちらに意識的に舵を切ってみせた新海誠さんのクレバーさ、恐るべし、というような作品だったと思いますね。

■新海誠監督がセカイ系を全肯定して打ち出す「セカイ系2.0」

で、その意味で今回の『天気の子』はですね、それそこ前作の時は、わりと前に出て発言しまくっていたプロデューサーの川村元気さんのインタビューとかが、今回、ほとんど現時点では出ていない、っていうのに象徴的なようにですね、そういう「細心のチューニング」みたいなことには、あまり重きが置かれていないように見える。というかですね、むしろ「セカイ系をポップにチューニングして成功した『君の名は。』」に対する、一種のカウンター、セルフアンサーでもあるような作品だと。

ちなみに『君の名は。』のね、あの主人公たちが、ちょっとキャメオ出演なんかをしていましたけども。今回はつまり、セカイ系なるもの、もしくは新海誠さん本来のカルト的な作家性、そういうものが、マスな世間、最大公約数的な視点から、どう見られてしまいがちか……要は『君の名は。』で、「見つかっちゃった」わけですよね。マスに見つかっちゃった新海さんが、どういう風に見られてるか、受け取られてしまいがちか、というのをいったん踏まえた上で、それでも「セカイ系がなんと悪いとや?」っていうね(※宇多丸補足:『高校大パニック』オマージュな言い回しです、念のため)。

「こういうエンターテイメントを必要としてる、特に若者というものもいるんだ!」っていう風に、改めて、一種乱暴に反転して、セカイ系的なるものを全肯定してみせるような。いわば「セカイ系2.0」的な、そういう作品になっている、という風に思います。まさにだから、肯定的なメールも否定的なメールも、言っていたことはある意味同じで、そのセカイ系っていうのに対して、いったんの否定があってからの、「いや……!」っていう全肯定。そういう構造の作品になっている、という。

■「『天気の子』は、天気がすごい!」

順を追って話していきますけども。まず、大前提として……これ、すいません。非常に表層的な部分で申し訳ないけども。でも、表層だけど大事な部分だと思いますけど。「天気」がテーマ、っていうとこで、僕はまず、「そう来たか!」っていうところで。僕、この着想がもう、見事だと思いました。うならされました。天候の変化、特に日本人にとっては、情緒的なもの込みで、誰もが日々かならずコミットすることですよね。誰もが天気の話題、かならず1回はする。だからこそ、毎日のこのね、いま僕がやっているようなラジオ番組でも、かならず話題にする。予報だけではなくて、話題にする。

で、あるいは「晴れ女」だの「雨男」だの、ふんわりした土着信仰チックなものもそこに絡めて……みたいなものも、この現代のね、科学が行き届いたような社会に見えるけど、そういうなんか土着信仰的なものも、我々の中にいまもやっぱり、染み付いちゃってますよね。みたいなことがある。で、そこに目をつけて、実際にですね、圧倒的なビジュアルとしてそれを提示して見せた、という。まあ、雲の表現しかり、雨粒の表現しかり。そしてその中で神々しく差し込む、あの晴れ間の表現しかりですね、

ここはやっぱり、美術監督の滝口比呂志さんの仕事が非常にデカいですね。『言の葉の庭』の天候描写、そして東京描写っていうのを、ググッとグレードアップしたというか、スケールアップした、という感じだと思いますけども。なので事実、僕は最近人から「『天気の子』、どうでした?」って聞かれたら、即答で、「冗談抜きで、天気がすごい!」「『天気の子』は、天気がすごい!」っていう風に答えてます。

つまり「『天気の子』というタイトルで天気がテーマ、そして実際に天気描写がすげえ!」っていう、この時点で僕はもうね、ある結構なラインをクリアしてる、っていう風に思うんですよね。「大したもんだ」っていう風に思う。しかも、この季節なわけですよ。梅雨から夏に向かっていくこの季節。映画館を出れば、雨が降ってるにせよ、晴れてるにせよ、何かしら劇中のそれとシンクロする「天気」が、現実にそこにあるわけですよ。

特に、舞台となってる新宿とか池袋で見ると、さらにシンクロ率が上がると思うんだけど。だから先に結論を言っておくなら、いま、この季節に、劇場で見る。そして劇場を出た瞬間、そのシンクロ率を味わう。これが間違いなくお勧めです! ということなのは間違いないと思います。冬、家のちっちゃい画面とかで見たら全然でしょう、それはだってね。ということで、季節的なことだけじゃなくて、いまこの瞬間の日本、東京というのが、多分に意識的に刻印された作品でもあったりする、ということですね。

■家出少年・帆高くん、大人になりきれていない須賀、さらにその中間にいる夏美さん。3人が出会う一幕目

で、とにかく主人公の帆高くんというのが、離島っぽい故郷からフェリーに乗って、東京に家出してくるという。で、理由は劇中では詳しく語られませんけど、顔に絆創膏なんかを貼ってるあたりから察するに、まあ誰かからぶん殴られて嫌になっちゃったんだろうなって……ちなみに新海さん本人によるノベライズ、これ僕も読みましたけど、そこでは一応「父に殴られた」って書いてありますけどね。

まあでも具体的な理由の、そこが重たいわけじゃなくて。どっちかと言うとそれを引き金として、若さゆえの衝動……周囲に対する苛立ちや疎外感、「ここではないどこか」に行き、「何者か」にならなければ! なることができるのか、俺は?っていう焦燥感に突き動かされての、要は思春期男子としてはむしろ普遍的な心理とアクションの結果なんでしょう、っていうね。

というのは、彼が家出中もずっと、『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)』を持ち歩いていて。で、それがわかりやすく何度か大映しになるわけですよ。まあだから、わかりやすいですよね。そういう感じで、まあまあ、『ライ麦』的な感じです! 『ライ麦』的な、普遍的な思春期のアレです! みたいなことですね。で、序盤はそんな彼が、新宿歌舞伎町をあてどなくさまよい歩く、というあたりなんですけども。ここも含めてこの『天気の子』という映画、これもメールにもいっぱい書いていただきましたが、さっき言った天候描写に加えて、東京各所の切り取り方っていうのも、非常に、大変魅力的な作品で。

まあ新宿、代々木、田端、池袋のあたりね、実在の場所とか店などが、スペクタクル的なその天気描写と相まって……要するに、いつも結構僕らは目にしている光景のはずなのに、その天気描写と相まると、何かすごい切り取り方が、まあレイアウトとかもいいんでしょう、非常に新鮮に見える。いわば「東京映画」としても一種、記念碑的な作品になっていて、それが楽しめるな、っていう風にも思えます。

ともあれ、家出少年の帆高くん。歌舞伎町で、拳銃、マカロフというロシアの拳銃をね、拾ったりしつつ……まあ、この「拳銃を拾う」というこれに関して思うところはありますが、それはちょっと後ほど言いますね。で、まあ拾ったりなんかしつつ。まずは、彼のような「子供」サイドの立場と、社会=「大人」側との、間に立ってるような存在である、小栗旬さんが声を当ててる須賀という男と、さらにその須賀というおじさんと子供側の中間にもう1人いるような、夏美さんという女性。これ、声を当てている本田翼さんが、僕はすごいよかったと思います。絶妙な、色っぽさとサバサバ感、人との距離感、温度感みたいなのが、セリフ回しですごい、一気に表現されてて。本田翼さん、すげえよかったですね。夏美さんね。

とにかくこの2人の間で、帆高くんは、一種疑似家族的な居場所を見つけていく。これが一幕目、っていう感じですね。

■社会の片隅で、無力な少年少女たちが生き延びようとする二幕目

で、ここまででも十分、1本の映画として、ひとつの成長譚として成り立ちそうな話なんですけども。面白いのは、この「疑似家族」っていうのがポイントで。この帆高くんは、後にというか前後して、陽菜というヒロインと出会って、その弟の凪くんというのと3人で、まあその「晴れ女」業というのを始めるわけですね。お祈りして晴れにしていく、っていう。

で、その二幕目の部分では帆高くんは、今度は……まず疑似家族の、疑似的な子供みたいなところに収まって居場所を見つけた後に、今度は、こっち(陽菜と凪)の疑似家族の、家父長的な責任を担おうとする、というところに行くわけです。なんだけど……っていう話になっているわけですね。しかし当然のようにそれは、社会的立場として無理がある、非常に実に危ういものでもあって……という。で、そうこうするうちに、それまで劇中で繰り返しほのめかされてきた、要は「晴れ女力」というこの超能力のツケが……実際のところこのツケは、主人公たち、帆高くんたちに回ってくるように見えるけども、実際のところは陽菜さんというその女性、1人に回ってくる。

で、ここで主人公たちが、まだ子供ゆえの無力さ、寄る辺なさをたたえながら、「冷たい東京」……舞台は夏なんですけどもね。まあ、どういうことかは見てください。冷たい東京の街……これには二重の意味がありすまよね、冷たい東京の街を、身を寄せ合って漂流する、というくだり。ここもやっぱりその「天候+東京」描写、非常にフレッシュな画が連発される部分で、すごくいいんですけど。

で、ついには池袋のラブホの一室にたどり着いて、束の間の、刹那的な……しかもその刹那的というのを、本人たちも薄々わかってる、っていうのがまた切ないというあたりなんですけども。まあ、疑似家族としての団欒の場にありつく、という一連のシーン。ここね、まあもちろん、お色気的なというか、淡いお色気もあるわけですね。あの陽菜ちゃんがお風呂に入ってきて、風呂上がりですれ違う瞬間に、お互いちょっと照れながらすれ違うんだけど、その瞬間に、帆高くんの髪がふっと揺れることで……要は「あっ! こいつ、いま匂いを嗅いだな?」っていう(笑)。「石鹸の匂いを嗅いだな?」っていう感じがするとかね、そういう細かいね、ちょっとエロきゅん的な描写がありつつ。

しかも、ここを団欒の場って言ったけども、彼らにとってのごちそうとは、ジャンクフードであるという。美味しそうではあるんだけど、やっぱり確実にいまの若者の、貧困の時代というのを感じさせるフード・食描写の数々っていうのも、本作を特徴付けてると思いますね。それもまた切ないという。とにかくここ、社会の片隅で、無力で小さいものたちが肩寄せ合って、いっとき生き延びようとするが……っていうその切なさ、悲しさ、そして愛おしさ、みたいな。僕はこれ、個人的には本作の白眉の部分だなと思いました。とてもいい場面だなと思いました。

■拳銃がもたらしたクライマックス周辺のピントのずれ

で、結局、もちろんそれ自体は全く間違ってはいないはずの、社会のルールとか常識っていうのに、文字通り主人公の帆高くんは、組み伏せられる。なんだけど、それでもなおそれを振り切って、自分にとって大切もの……この話の場合は、陽菜さんを取り戻すべく、走りだす! というようなクライマックスになってくる。ここね、RADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい」、すごい耳に残っていると思いますが……ここ、RADWIMPSの野田さんが脚本を読んで、3ヶ月後に、最後に流れる「大丈夫」っていう曲とセットでつくってきた。依頼じゃなくて、アンサーとしてつくってきた、という曲らしい。

しかもその、エンディングで流れる「大丈夫」っていう曲から、新海誠さん本人が逆に、ラストの終わらせ方のインスピレーションを得た、っていうことをあちこちのインタビューでおっしゃっているぐらい、今回のRADWIMPSと新海誠さんのコラボは、より密接かつクリエイティブになっていて、これは大変、構図としては美しいなっていう風に思います。で、帆高くんがそんなRADWIMPSの曲に乗せて、ヨタヨタと、山手線の線路をですね、おそらくは池袋から代々木まで駆けていくくだりの、言うならばその、格好悪いまでの一途さみたいなのも、やっぱりグッとくるくだりですし。あと、東京の切り取り方としても非常に新鮮だし。

ただですね、個人的にはですね、帆高くんが社会と対立する理由がですね、要は「拳銃を拾って発砲しちゃった」っていうことと、そもそも家出中であるっていうことでの、社会との対立。警察に追っかけられるわけですね。つまりそれは、その陽菜さんと一緒に選びとったこと、晴れ女活動のツケ、という件とは、直接関係がないんですよ。僕はこれゆえにですね、クライマックスに向けた警察とのすったもんだとか、あとはそのオトナコドモ的な立場の須賀さんとの言い合いっていうのが、テーマに対して、ピントがずれちゃってるっていうか、正直ちょっとイライラしちゃったんですね。

まあ拳銃っていうのが、思春期のヒリヒリ、何ならそのリビドーの象徴的なもの、っていう風なものとして置く、っていうのはあるかもしれないけど……僕はこれはもっとストレートに、やっぱり陽菜さんの晴れ女活動そのものが社会と対立する、っていう構図でよかったでしょう?って思うんですよね。そうじゃないから、なんかちょっとピントがずれてる気がして、クライマックス周りでなんかモヤッたりする。

■セカイ系的な展開を一旦否定した上での結論は……

とはいえ、クライマックス。RADWIMPS feat. 三浦透子さんの「グランドエスケープ」という曲(宇多丸註:放送では「祝祭」と言っておりました。お詫びして訂正しておきます)が高らかに鳴り響き……ここは本当に、音楽と映像のテンポだけでまずは生理的に感動させられてしまう、もう力技!っていう感じがありますけど。そこで帆高くんがする、ある選択。これ、「賛否両論分かれることを覚悟して……」と新海さんがおっしゃってますが、僕は全然、フィクションならでは、物語ならではの大風呂敷、その志や良し! 全然いいと思いますし。映画なんだから、こういう極端なカタストロフ的着地、全然素晴らしいと思います。

それはいいんです。で、まあ最終的な結論は、要はひたすら若者たちの背中を優しく押してあげる方向、というかですね。「たとえ世の中がめちゃくちゃになっちゃったとしても、きっとみんななんとかやっていきますし、君らはそのままで大丈夫!」。あるいは、「人がどうこう、社会がどうこうじゃなくて、自分にとって大切なものの方に突き進んでいいんだよ! 多少それで大変なことになっても、結果なんとかなるから大丈夫だよ!」っていう風に、若者の背中を押してあげる感じ。

で、ラスト近くですね、その須賀さんという、オトナコドモ的な立場だった人の口を通じて、いったんセカイ系的な考えを批判的に相対化してみせた上で……「なにが世界を変えちゃっただ? そんなわけあるかい!」って相対化してみせた上で、「いや、世界のあり方っていうのは、僕が自分で決めるんだ!」っていう再宣言に至るという。まあ、セカイ系再宣言!みたいな感じに至るという。まあここがミソなんでしょうけど。ただですね、その須賀さんのセリフも、言い換えれば、「いや、責任を感じなくていいよ」っていう風に、その帆高くんたちを「免罪する」ニュアンスもある。その前の、倍賞美津子さんが声を当てているおばあさんのセリフも同様ですね。(多くの罪なき犠牲を伴ったであろう主人公たちの選択を)免罪するっていう。

■周囲にひたすら許される「ミスターひとり相撲」、帆高くんに感情移入できるかどうかで評価は分かれるかも

事程左様にですね、帆高くんが、要は結局のところ最終的には、周りの人々に無際限に許されていく話、っていうところにも、やっぱりならざるをえなくなっちゃってて。特に気になるのは、大人たちが許すのはまだいいんですけど、ヒロインの陽菜さん。彼女がですね、結局その、いろんな業を1人で背負っちゃってるわけですけど、彼女がひたすら帆高くんの行動を許し、その選択を受け入れていくことで、初めて成り立ってる話なわけですね。

ちょっとだから陽菜さんは、不自然なほど帆高を受け入れるし、許すんですよ。あまつさえ、彼女がその犠牲を自ら払うことになっているのに、「いや、ありがとう」みたいなことまで言うんですよ。「気にしないで。むしろ、ありがとう」みたいな。なんかすごく帆高くんに都合のいいことを、常に言ってくれる人になってるわけです。で、最終的に、じゃあ逆に帆高くん自身は、なにを犠牲にして、なにをしたんだっけ?って考えると……実はなにも、っていう話にも見えちゃうんですよね。

非常に理想化された他者っていうのを置くんだけど、それって<他者>なんですかね?っていう感じにもなる。そういう結末の甘さというか、それがすごく僕は気になりました。やっぱりここはですね、「社会との対立」っていうテーマが、その帆高くんがピストルを持ち歩いて発砲して……とかっていうところで、ずれちゃったことが最大の原因だと思います。陽菜さんと選択したことと(社会とが)対立するのであれば、ここでもうちょっと、その対立と結果っていうのに対する帆高くんの責任っていうのが、もうちょっとはっきりしたと思うんですけど。

ある意味帆高くんっていうのは、「ミスターひとり相撲」なんで。そのミスターひとり相撲の行動に感情移入できるかどうかで大きく分かれるかな、という感じ。ただもちろん、こういう風につくりたかった、っていうことがあるんでしょうけどね。

ということで、先ほども言いましたが、いま、この時期に劇場で見る……ジャッジはもちろんおまかせしますんで。それがおすすめでございます!

(CMあけ)

はい、ねえ。『天気の子』の聖地巡りとかもね、きっと楽しいでしょうね。「歌舞伎町のマックの、あの席!」ってさ、できちゃうからね。

(来週の「ムービーウォッチメン」はお休み。かわりに、『モテキ』『未来のミライ』などで衣装コーディネートを手がけるスタイリストの伊賀大介さん「スタイリスト目線で選んだおすすめの映画」をご紹介頂きます。)

以上、「誰が映画を見張るのか?」。週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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