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海外で大々的に報じられたある日本人の訃報

森本毅郎 スタンバイ!

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海外で大々的に報じられた、日本人の訃報をご存知でしょうか。その名前は「加藤九祚」。9月11日、94歳という年齢で逝去されました。加藤さんの成し遂げてきた功績を歴史とともに「森本毅郎・スタンバイ!」(TBSラジオ、月~金、6:30-8:30)の「日本全国8時です」でジャーナリスト・嶌信彦さんが、解説しました。

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★世界中が報じた「加藤九祚さん」の訃報

加藤九祚さんは、「文化人類学者」で、「シルクロードの研究」や、「仏教遺跡」を中心とする考古学・発掘調査でも世界的に有名です。海外でも彼の訃報は、大きく報じられました。

ロイター「人類学者、加藤九祚が死去」
韓国の新聞「シルクロード権威者の死去」
そして、何より大々的に報じたのは「ウズベキスタン」でした。ウズベキスタン政府は「国民にとって大きな損失」と悼み、大きく報道しています。

 

★シベリア抑留下で研究を続けた不屈の精神

そもそも、「加藤九祚」とは、どんな人物だったのか?振り返ってみたいと思います。

加藤九祚さんのルーツはシベリアから始まります。

加藤さんは、1944年に出征。満州で敗戦を迎え、シベリアに抑留され、日本の戦争が終わっても理不尽な捕虜となっていました。その期間も長く、「4年8ヶ月」もシベリアに抑留されていましたが、加藤さんが凄かったのはその時のことです。多くの人が絶望感に打ちひしがれている中、唯一、「せっかくだから、この機会にロシア語でも勉強しよう」と、めげずに独学でロシア語の勉強を始めました。そして、わずか1年でマスターしたそうです。それも、あまりにもロシア語がうますぎることから、日本人たちの中で、「スパイじゃないか」と疑われるほどにまでなったということですので、相当な努力を重ねたと思われます。

驚くことに、加藤さんの意欲は語学にとどまりませんでした。ロシア語を学ぶ中で、ロシア文学に触れていくうちに一人の人物を知り、研究を始めるのでした。それが、戦時下の軍部の弾圧で死を遂げた親日学者「ニコライ・ネフスキー」です。

 

★加藤九祚氏が魅せられたロシア人

ネフスキーは、ロシア・ソ連の東洋学者で、その生涯から「悲劇の天才言語学者」と呼ばれています。1915年に留学生としてロシアから来日しますが、直後の1917年、ロシア革命が起きてしまい、帰国を断念。その間、ネフスキーは、日本で文学を中心に研究し、柳田國男、折口信夫らと親交を重ねました。そして、神道をはじめ、アイヌ民族なども幅広く研究し、数々の業績を残します。その後、日本人と結婚して、1929年、祖国がソ連となった頃、ネフスキーはようやく帰国するのでした。ところが、帰国後も平和ではありませんでした。レニングラード内務人民委員会(KGB)に「スパイ容疑」で殺されてしまうのです。死後、功績が認められて名誉回復。レーニン賞などを受賞しますが、その歴史に翻弄された生涯から「悲劇の天才言語学者」と呼ばれています。

加藤九祚さんは、このネフスキーの生涯に感銘を受け、彼の研究をはじめます。それは、日本に帰れずシベリアでロシア語を学んだ自分を、ロシアに帰れず日本で日本やアイヌを学んだネフスキーに重ねて見たのかもしれません。そして、研究をまとめた著書「ニコライ・ネフスキーの生涯」で、1976年、第3回、大佛次郎賞を授賞しています。

こうした加藤さんの人生には、多くの方が感銘を受けています。その一人が司馬遼太郎氏。著書「菜の花の沖」の中で「加藤氏はシベリア抑留時代、生命をしぼりとられるような労働の中で、シベリアを観察し(・・・)ロシア語をみごとに独習した」と賞賛しています。

 

★65歳で新たに遺跡発掘を開始

加藤九祚さんの研究意欲は、その後もとどまることを知らず、ロシア文学からさらに範囲を広げ、ユーラシアの考古学等を研究。やがた、シルクロードにも関心を持つようになります。シベリアから戻り、大学を出た後は、出版社で働いていましたが、驚いたことに、定年となった「60歳」以降、今度は本格的に、遺跡の調査研究をはじめました。加藤さんの遺跡発掘デビューは「65歳」。リタイアする人も多い年齢ですが、加藤さんは、こう話しています。

「人生に、もう遅いはありません。老いは免れませんが、好奇心は抑えられなかった」

この年から、アフガン国境付近で、ウズベキスタンにある「テルメズ」という地区で遺跡発掘を開始。なんと、開始から「4日程度」で発掘に成功します。ウズベキスタンは、シルクロードのど真ん中にある国で、この「テルメズ」は、かつて「西遊記」で有名な「三蔵法師」が、ここを通ってシルクロードを巡り、インドにわたり、仏教の経典を中国に持ち帰ったとされる場所。その経典は、後々日本に伝わって、今の仏教となります。加藤さんは、三蔵法師の巡った数々の遺跡を見つけましたが、それはある意味、仏教のルーツを遺跡から発見し、その仏教遺跡を発見、光をあてた先駆者です。

 

★ウズベキスタンに作った「加藤の家」

こうして、遺跡発掘が加藤さんの人生の中心となり、その後、ウズベキスタンを自分の第二の故郷と呼ぶくらいの拠点にします。そして、ウズベキスタンの文化・歴史・遺跡を日本に広めるうちに、ウズベキスタンでは、加藤さんの名前が有名になります。ウズベキスタンの小学校6年生の公民の教科書にはこう記載があります。

「はるばる日本がやってきて・・・考古学的発掘に従事している加藤九祚氏について聞いたことがあるかもしれない。彼の犠牲的精神に富む、広範な知識は、われわれの歴史全体や古代の遺跡のみならず、文化的・精神的遺産にも深い理解を示している。・・・実り多い成果をあげたことにより、ウズベキスタン共和国大統領令に基づいて「友好」勲章をさずけられた」

そして、最後にはこう書いてあります。

「ウズベクの人びともまた、彼を敬愛するがゆえに「ドラム=先生」とよんでいる」

ウズベキスタンでの功績は大きく、そして愛されていたことが良くわかる文章です。

 

★生涯現役という生き方から見えるもの

そんな加藤さんの生き様は最後まですごかった。私も何度もお会いしたことがありますが、加藤さんは、かつてこう話していました。

「私の希望は発掘しながら、パッタリ死ぬこと」

その言葉通り、まさに、ウズベキスタンの発掘調査の現場で94年の生涯の幕を閉じたのです。夫人の加藤定子さんは、服装史の研究家としても有名で、まさに夫唱婦随の考古学夫婦でした。

加藤さんという日本人と、タイミングを同じくして、ウズベキスタンでは、大統領だったカリモフ大統領も先日死去しました。ウズベキスタンでの歴史的な2人の人物の死は大きな衝撃です。そして、ウズベキスタンは親日で、日本との交流も深く、かつ、中央アジアのバランスをとる国でもありました。そのウズベキスタンで、遺跡だけでなく、民族・芸術・文化などの歴史に精通している加藤さんの死は、ウズベキスタンでは「国民の損失」とまで言われています。それは、ウズベキスタンだけではなく、日本でも大きな功績の先駆者の死は実は大きいと思います。

 

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